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石塚正英著「ボディソフィー(身体知)」

 投稿者:やすいゆたか  投稿日:2012年 8月31日(金)21時22分37秒
  『東京電機大学総合文化研究』第2号、二〇〇四年

「ボディソフィー(身体知)」
Bodisophy:How to grasp "human intelligence" in the advanced engineering age
石塚正英

はじめに
1 「身体知」の説明――地動説と天動説を例に
2 新たなレベルでの「知」の総合―経験知・科学知・身体知の相関
3 身体知体系の3層構造――フェティシズム・身体知・バーチャルリアリティ
おわりに

はじめに

 ヒューマノイドに代表されるロボット工学については、21世紀の先端工学・高度情報社会を生きる人々の多くが自然に受け入れ、日常生活に役立つ技術として好意的に評価している。元来はモノでしかない機械や機器が、あたかも心や頭脳、あるいは体温を備えた生き物、親密なパートナーのように見なされ扱われる。生きているゴロニャン猫よりもコンピュータで制御されたロボット猫のほうが好まれる。いや、猫ばかりではない。人間についてもまた同様の傾向がみられるようになった。
 かつては、人間をモノ(機械・ロボット)のように扱うのは人間疎外であるとして、ヒューマニスト(人間主義者)から非難された。チャップリンの映画『モダン・タイムス』(一九三六年)はそれをテーマにしてヒットした。
しかし、場合によってはモノを人間のように扱うのが擁護される時代となり、モノと人間の境界が曖昧になるや、場合によって人間をモノのように扱うのはそうおかしなこととは思われなくなった。かつて技術者は、人間にやさしい機械を作り出すのに懸命になっていた。ファジィ制御などはその一例といえる。ところが今やベクトルは反転しつつある。機械が人間に近づくのでなく、人間が機械に擦り寄るのである。
 人間にやさしい機械が考案されるのに呼応して、機械に適応する人間がアドバンテージを得つつある。そこで、種々のリテラシーを体得して機械になじんだ人間を育てるのが重要として、機械と人間の相互互恵的な関係(マンマシン・ヒューマンインターフェイス)を研究する科学者が増大している。
 私は、このような状況変化に、近代的な「知」の枠組みが変化していく過程を見通している。ときにモノが人扱いされ、ときに人がモノ扱いされる。このような転倒現象は人々の心身運動に実に有意味であることを研究して四半世紀になる。いわゆる「フェティシズム研究」である。●1
1 さしずめ以下の文献を参照。石塚正英『フェティシズムの思想圏』世界書院、一九九一年。

 その研究成果をもとに、本稿ではとくに、前近代→近代→近未来というように時間軸に即して変化していく「知」の枠組みについて、その三種の特徴を分析してみたい。その目的は、たんに科学的知見と非科学的な知見とのあいだに境界線を引くことではない。前近代に起因する知(経験知・感性知)と現代に特徴的な知(科学知・理性知)を時間軸上で総合する知、人類史の二一世紀的未来を切り拓く知、筆者なりの表現をとれば「歴史知」(通時的)ないし「身体知」(共時的)、これを探究することである。なお、本稿では現代という共時的な場・空間を軸とするので、キーワードを「ボディソフィー(身体知)」で代表させる。●2
2 詳しくは以下の文献を参照。石塚正英・杉山精一編『歴史知の未来性―感性知と理性知を時間軸上で総合する試み』理想社、二〇〇四年。

1 「身体知」の説明

 福澤諭吉は『文明論之概略』の中で、「知」に関して次のように述べている。「智とは智恵と云ふことにて、西洋の語にて「インテレクト」と云ふ。事物を考へ、事物を解し、事物を合点する働きなり」。●3
3  福澤諭吉『文明論之概略』、岩波文庫、一九八六年(初刷一九三一年)、一〇五頁。

この一文に注目した丸山真男は『「文明論之概略」を読む』において、こう述べた。
「福澤がここでいう智恵という場合、実は、いろいろな要素が一緒になっていて、未分化なところがあると思うのです。智恵というものについて、私は一応こういうふうにレヴェルを区別してみます。いわば知の建築上の構造です。

              information(情報)
                |
             knowledge(知識)
                |
              intelligence(知性)
                |
              wisdom(叡知)

[……]一番下に来るのが土台としてのウィズダム(叡知)です。これはいわゆる知識や科学技術学習の程度と必ずしも併行しません。庶民の智恵とか、生活の智恵といわれるのがそれに近いものです。その上に来るのが、理性的な知の働きとしてのインテリジェンス(知性)です。[……]その一段上のノレッジ(知識)というのは、叡知と知性を土台としていろいろな情報を組み合わせたものです」。●4
4  丸山真男『「文明論之概略」を読む』中、岩波新書、一九九六年(初刷一九八六年)、二二四~二二五頁。

 福澤と丸山とを参照しながら「身体知」について考えると、それは叡知にとって必要なかぎりで知性を取り込んだ「知」であり、さらには叡知と知性にとって必要なかぎりで知識と情報を取り込んだ「知」であると言える。「身体知」という概念でイメージしたいのは、近代西欧において成立した科学知や理性知――丸山の分類を借用すると「intelligence(知性)」中心――が肥大化しそれによって知の圏域から排除されてしまった部分、つまり経験知や感性知――丸山の分類を借用すると基盤としての「wisdom(叡知)」――の部分に関連する。
 ところで、昨今は情報社会である。文物制度が価値をもつだけでなく、それに関する情報に価値が生まれ、さらにはそうした一次的情報に特化して系統的に整理された二次的情報が次々と価値を生んでいく時代である。だが、「情報」というのはそれのみでは「知識」にならない。このことに関して丸山は次のように述べている。
「情報というのは無限に細分化されうるもので、簡単にいうと、真偽がイエス・ノーで答えられる性質のものです。クイズの質問になりうるのは、この情報だけです。第二次大戦の原因は何かとなると、知識のレヴェルになり、したがってクイズの問題になりえません。無数の情報(史料)を組み合わせねばならないので、イエス・ノーで答えが出せないのです」●5。
5 丸山真男、同上、二二五頁。

 学歴社会でいう「頭のいい子」とは、丸山の議論に照らして判断するならば、情報をたくさん詰め込んだ生徒である。歴史に例をとれば、「日露戦争とは日本とロシアとの間に生じた戦争」という情報をもつ生徒よりも「日露戦争とは一九〇四年から翌年にかけて日本とロシアの間に生じた戦争」という情報をもつ生徒のほうが「頭のいい子」となる。しかし日露戦争に関する「情報」は、戦争の歴史的意義およびこれを学習する主体の目的意識といったものを介してはじめて「知識」になる。学習における理解度とは、仕入れた情報の量でなく内的動機に基礎づけられた知識の深まりをいうのである。
 ここに語られる理解度とは学習する主体の目的意識に関連する。目的意識が様々であるのに応じて理解度が様々であるのはごく自然なのである。情報を知識に高め深め得るかどうかは各自の目的意識にかかってくる。情報の過多過小によるものとは言いきれない。文学に関心のない人はそれに関する情報はもっても、さりとて自ら文学する知識つまり理解度は深めない。天文学に興味のない人は、教育の場での情報として地動説や地球球体説を受け入れても、生活上の知恵は天動説や平板説で補っていてよい。ここでは文学でなく天文学に事例をしぼって、さらに議論を深めよう。
 人は身体においても精神においても、ときとしてずっと非文明的ないし辺境的なままで過ごしている場合がある。その事例として上記の地動説に対する天動説の関係が指摘できる。科学知・理性知がしっかり根を下ろした現代社会でも、我々は日常生活では天動説に即した観念―「朝日が昇る」など―を捨ててない。二〇〇四年二月に行なわれたある調査では、小学生の四割が「太陽は地球の周りを回っている」と信じている。●6
6二〇〇四年四月一二日付『読売新聞』(ホームページ)には、「太陽は地球の周りを回っている…小学生の四割」と題して、次の記事が載った。
「小学生の四割は『太陽が地球の周囲を回っている』と思っている――。国立天文台の縣(あがた)秀彦助教授らが行った調査で、天文現象に対する子供たちの理解の乏しさが浮き彫りになった。 調査は二月、長野市と北海道上富良野町の公立小学校の四、五年生計一一六人を対象に行った。「地球は太陽のまわりを回っている」「太陽は地球のまわりを回っている」という二つの文章から正しいものを選ばせたところ、四一%が"天動説"を選んだ。(……)この結果について、縣助教授は「現在の学習指導要領が、目で見える事象の観察や実験を強調し、なぜそういう現象が起きるのかを考えさせる仕組みになっていないため」と分析。地球と太陽、月の関係を鳥瞰的にとらえることなども授業に取り入れるべきだと話している」。(http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20040412i306.htm

 こうして欧米的文明社会においてさえ、大人の世界では地動説が承知されつつも、子どもの世界ではけっこう天動説が愛好されているのだ。あるいはまた、大人の世界ですら、我々は現在のところ理性知や科学知の視座から地動説を認めつつも、実際には経験知や感性知の視座から天動説にしたがって生活している。頭脳は地動説を承認するものの、身体は天動説を心地よく受け入れるのである。地動説すなわち科学知からはとうてい承認しがたいものの、現代人は、日常生活では天動説すなわち経験知に依拠して生活しているのである。
 その際、経験知や感性知の立場を前近代的と見なして拒否するのでなく、これを知の体系の一方の極に据えて、また他方の極に科学知や理性知をおき、双方を交互的な運動や相互的な往還といった動的なサイクルに位置付けしなおし、総合していくことが意味をもつであろう。その先に見えてくる新しい知が「身体知」である。古代ギリシアのプラトン以来、身体と知ないし質料と形相とは別の次元に置かれてきた。二一世紀にはこれを総合する試みが意味をもつのである。一方で私は、精神は身体を質料としこれに依存する形相である、とのアリストテレス学説を支持する。それと同時に他方では、現実に対するプラトン的イデアのヴァーチャルな力に人間の本質と限りない可能性を見いだすのである。
  次節では「経験知」(前近代知)、「科学知」(近代知)と、この「身体知」(近未来知)との相関を検討する。●7
7 なお、言葉の響きからすると、「身体知」は「経験知」や「感性知」と同じ前近代の知に括られようである。「からだが覚えている」といった表現や職人の勘など、その一例である。しかし、本稿では議論の過程で歴然たる概念上の区別を与えている。とはいえ「経験知」や「感性知」は、上記の動的なサイクルに入ることにより「身体知」となるのであるから、条件しだいでは区別しえないとも言える。


2 新たなレベルでの「知」の連合
――経験知・科学知・身体知の相関

 先に言及しておいた地動説や球体説に関連することとして、物理学者の山本義隆は、『磁力と重力の発見』において、次のように述べている。

「武器軟膏(刀傷の治療のために傷にではなく傷を負わせた刀のほうに塗ればよいという薬)の作用がその遠隔性ゆえに認められないのであれば、太陽が地球に及ぼす重力も、地球が月に及ぼす重力も同断ではないか。そんなわけでニュートンが天体間に働く重力を力学と天文学に導入して世界の体系を解き明かしたとき、いまでは考えられないくらい激しい批判が、一方では新しい科学の提唱者であるデカルトのエピゴーネンやライプニッツから、他方では守旧派とも言うべきアリストテレス主義者たちから浴びせられたのである」。
「自然にたいして宗教的自然観や魔術的自然観といった多様な見方が共存・競合していた時代の歴史を、近代科学のみが正しいものと認定されるようになった現代の尺度で裁断することにたいしても、同様の反省があってしかるべきである」。●8
8 山本義隆『磁力と重力の発見』第1巻、みすず書房、二〇〇三年、六頁、一五頁。

 価値観やモラルの崩壊、生活信条の喪失、あるいはライフスタイルの多様化・破局化が進行する今日であればこそ、現代人は山本の指摘するような反省を行うべきである。そして、社会と個人を見つめるもう一つの目である「身体知」的視座を養い、諸領域における情況の有為転変に対して遠近硬軟さまざまなスタンスをとるゆとりを確保するべきなのである。その議論をすすめるのに、次に球体でなく平板である地上での日常生活に素材を得てみよう。
 例えば、モータリゼーションとコンピュータリゼーションの行き着く先に、我々は機械の人間化を達成してきた。あるいは人間の機械化と形容してもいいであろう。その過程で我々の身体は超能力ともいえる技術を獲得した。そうした機器(技術・能力)はもはや身体の一部になっている。自己同一(identify)してさえいる。しかし、少しでも機器とのスタンスを取り誤ると、それと自己同一しているだけに、我々は機器に従属する存在に堕ちる。ある機器が自己の能力をアップし、その機器が自己と一致した場合、その一致をもって自己の能力とみなして一向に差し支えないのだが、その機器と自己との一致は相対的で可変的な関係に過ぎないということを考慮することが肝心である。
人(の能力)は、そのときどきの環境――社会環境、歴史環境、生活環境、そして身体環境――にあってさまざまな外的存在とさまざまな関係の中に共同存在しているのだということを忘れてはならない。自己同一の対象が変わればそれとの共同存在としての自己(の能力)も変わるということである。
 自己と他者との関係に関するそうしたフレキシブルな認識は、近代知の代表である科学知の視座のみでは維持が困難といえる。なぜなら、身体とはまさに歴史的な、風土的な関係の中で相互的に形成されてきたものだからだ。そのかぎりでは、身体はけっして数量的・合理的・普遍的な基準ではかることができないにもかかわらず、科学知は基準としてそれ以外のものを認めたがらない。そこにこそ、従来の二種の「知」を総合させる視座を獲得する意味が生まれるのである。
 身体知的視座における自己とは、すべてその人物が関わり合ってきた諸関係の中で相互的に決まる。すべてが複合されて存在しているのであって、どれが本物でどれが偽物だなどと決めることはできない。諸関係の総体で見ていくのが本筋である。
 その際もっとも意識しなければならないのは、近代が数量的・合理的・普遍的な基準ではかった自己ばかりを重視するあまり、歴史的自己とそれを成立させてきた歴史的環境・基準を無責任にもスッパリと削ぎ落としてしまった点である。しかし、そうした歴史的自己は、依然として私たちの身体と心とにしみついている。その状態に何らかの条件――とりわけ科学一辺倒への反省――が加味されると、歴史的自己は科学的自己との間で交互運動を引き起こす。
人は何の教育(すり込み)もなければ天動説(経験知)で生きる。その後、教育(情報)を授けられて地動説(科学知)を認識する。自然の経験知と人為の科学知、以上二種の「知」を両極とする楕円世界にあって、人は身体を介しつつ、条件の組み替えに合わせて交互的に運動する。そこに現れるのが、近未来を切り拓く新たな知的体系、「身体知」なのである。

3 身体知体系の三層構造
――フェティシズム・身体知・バーチャルリアリティ

 近未来の知として私が提示する身体知には、事象(現実の世界)と表象(認識された世界)は相互に転倒し合っている、という認識論的前提がある。その転倒現象をもとに身体知が可能となり、さらにそのもとに二一世紀の科学は成立する、としている。そこで、本節では、以上の諸問題を「身体知体系の三層構造」と題して解説し、次節でまとめとして、先端工学時代における「知」のありようを述べてみたい。
 まずは身体知体系の三層構造の第一層(深層)、いわば認識の場について検討する。それを私は「フェティシズム世界」と呼ぶ。
 フェティシズムとは、もともと原初的信仰の一つを意味する術語であり、神と人間(信徒)との間の<創造・被創造>、地位をめぐる転倒現象を説明している。●9
9 シャルル・ド・ブロス、杉本隆司訳・石塚正英解説『フェティシュ神崇拝』法政大学出版局、二〇〇四年、参照。

 民俗学者フレイザーによれば、神々は信者たちに必要とされたから存在したのであって、同じように信者達は神々に必要とされたからこそ存在したのである。与えられた恩恵は相互互恵的なものであった。●10
10 ジェームズ・フレイザー、神成利男訳・石塚正英監修『金枝篇』第一巻、国書刊行会、二〇〇四年、参照。なお、神は人間が造ったのであり、しかも創造者の人間こそが神になる、ということを、アルベール・カミュが述べている。「神を生みだすのはわれわれである。創造者は、神ではない。そこにこそキリスト教の一切の歴史がある。なぜなら、われわれにはたった一つしか神を創造する手段はない。それは、神になるということだ」。カミュ、高畠正明訳『反抗の論理―カミュの手帖2』新潮文庫、一九七五年、一四七頁。

 ようするに本来は人間が神をつくって相互に依存関係を取り結んだのだが、生活上では反対に神が人間をつくり絶対的な存在となって人間を慈しむように考えた方が生きやすい。そのような転倒した深層心理をフェティシズムといい、経済学では資本・貨幣に拝跪する人間を分析するのに適用され、精神分析学・心理学では性の倒錯現象を説明するのに好んで援用された。いまやコンピュータやロボット、電脳世界に癒しを求める人間を分析するのに意義を有する。
 ただし、私の研究では発想の転換をはかり、そうした倒錯の現象と現場をネガティブにでなくポジティブにとらえ、高度情報社会を生きる人々が自然に受け入れる場として評価している。繰り返しになるが、再度力説する。すなわち、一方で人間をモノ(機械・ロボット)のように扱うのが非難され、他方でモノ(機械・ロボット)を人間のように扱うのは擁護される。私はそのような一面的な立場に修正をせまり、人間にやさしい機械を求めるのみならずリテラシーを体得して機械になじんだ人間をも育てるのが重要として、機械と人間の相互互恵的な関係(マンマシン・ヒューマンインターフェイス)を研究する。転倒は時と場合によって実に有意味であることをフェティシズムに見いだすことができる。●11
11 本稿で論じるフェティシズムについて、いっそう詳しくは以下の文献を参照。石塚正英『複合科学的身体論』北樹出版、二〇〇四年。

 次に身体知体系の三層構造の第二層(基層)、いわば認識の視座ないし方法の場についてである。それを私は「歴史知的視座」ないし「身体知的視座」と呼ぶ。
 例えば、円を考えてみよう。これは、現実世界にはけっして存在しないものである。完璧な円や球といった図形や造形は理論的に想定されたものでしかない。一種のバーチャル・リアリティである。そもそも直線や曲線、それに点も、けっして描くことができない。それらは面積をもたないからである。しかし、これを存在し描けることにしなければ算数・数学は成立しない。その際、理論上のバーチャルな円についての認知・認識を科学知・理論知と仮定し、現実世界に存在する〔まるいもの〕――太陽や満月、瞳など――についての認知・認識を生活知・経験知と仮定してみよう。そのような設定においては、生活知・経験知の中から科学知・理論知が成立していることがわかる。経験的観察を基準にして観念的再構成がなされるのである。
 ところが、後者がいったん確立すると、それは前者を規定する基準になり、こうして現実と理論の間にバーチャルな関係が生まれる。これは転倒した関係である。その転倒現象を一度もとに戻して現象世界を交互的に見極めようというのが、歴史知の立場ないし身体知の立場である。「知」に「歴史」という形容語を冠した理由は、以上の転倒現象がとりわけ近代と前近代との間で通時的・歴史貫通的に妥当するからである。また、「知」に「身体」という形容語を冠したのは、以上の転倒が身体を媒介して人と他者のインターフェイスにおいて現象するからである。
 要するに、現代社会と科学知一辺倒で対面するのではなく、それに従前の経験知を加味し、両者が交互的に関係する総合的な知の体系「歴史知・身体知」で対面することが求められる●12。
12 科学知とか経験知とかの術語は使用していないものの、情報理論に代表される科学理論の構築には理工系と人文系の双方の協同が必要であるとの認識から生まれた先駆的著作に、次のものがある。Colin Cherry, on Human Communication, London, 1957, 都丸喜成・木納崇訳『ヒューマン・コミュニケーション』光琳書院、一九六一年。

それは、いわば医学において基礎理論=科学知と臨床経験=経験知の総合が求められるのと同様である。そうした経験知と科学知の相補性をみるのにもっとも身近な事例は身体である。身体は、自然と人間のインターフェイス、社会と人間のインターフェイスの要にあたる。「知」はそこにこそ集中して表現されるのである。
 最後に、身体知体系の三層構造の第三層(表層)、現象の場をみる。それのための個別的事例として、情報社会・メディア社会に特徴的なバーチャル・リアリティをケーススタディにしてみよう。
  現代社会は仮想現実、いわゆるバーチャル・リアリティを特徴とする。いや、人類社会は古代からさまざまなバーチャル・リアリティに親しんできた。例えば家族がそうである。人類の自然な組織は氏族であったが、禁忌(タブー)という文化が成立するや同族内での婚姻が禁止され、見知らぬ男女がもっとも近しい間柄であるかのように仮想され、やがて家族が成立した。それ以来現在まで、血縁関係から見てもっとも疎遠なペアすなわち父母が血縁家族の絆・中核となるのであった。
自然のままであれば疎遠な二人が、婚姻という条件が加わると転倒して血縁の中核となる。氏族内であればオジ・オイ関係が男の世代をつなぎ、父親の存在は意味をなさない。元来はこれが自然の現象であった。そこへ禁忌という人為が加わり、父が妻子を奴隷的状態(ファミリアとは奴僕の意味)におく関係が成立した。その状態を転倒するべく家族愛が生まれた。●13
13 バーチャル・リアリティとしての家族については、以下の文献を参照。石塚正英『バッハオーフェン――母権から母方オジ権へ』論創社、二〇〇一年。

 現代では、例えばロボットがペットや家族員の役割を担う。これもまた転倒現象を象徴している。今や次のようなロボットが開発されている。人工筋肉や人工指紋をつけたもの、トランペットを演奏したりオーケストラを指揮するもの、自ら学習し自律した行動をとるもの、等々。これならば、買い主(主人)に献身的な奉仕や無垢の愛を示してくれる。それにひきかえ、血縁・地縁の人間たちは喜怒哀楽こもごもで対応してくる。どちらが癒しや慰めに適しているか。答えは、いわずもがな、であろう。愛するロボットのために生身の人間を裏切ることは、きっと日常茶飯事になるであろう。「バーチャル・リアリティ万歳!」である。
 この転倒した状態を非難する人は、科学知に深入りしている。科学知に立つ人は、ロボット(機械)の人間化は歓迎するが人間のロボット(機械)化は拒絶する。人間に奉仕するロボットは受け入れるがロボットに奉仕する人間は受け付けない。それに対して、身体知に立つ人は、ロボットが機械であると認識しつつそれを心底から愛すことができる。壊れはするが死ぬことのない相手に永遠の愛を捧げることもありうるのである。

五感のおごりを克服したい
――まとめにかえて

 「五感のおごり」という言葉がある。「耳の聞こえない人は音楽を楽しむることができない」、「目の見えない人は絵画を理解することができない」とする発想は「おごり」に通じる。ある曲を楽しみある絵画を理解するということは、耳や目が自由か不自由か、だけではすまされない。たとえば音楽に親しみ絵画を理解するとき、耳や目の不自由な人は別の感受性でもって目や耳の自由な人と共鳴しあい、雰囲気を共有しあっている。ある感受性をもたないでいる人がそれを補うことなくしかもそれをもっている人と心を一つにするものは、いったい何であろうか。楽しさとか嬉しさとかの感情、共感ではないだろうか。その楽しみを、ただ聴覚や視覚が備わっているだけで味わえると思うのは、「おごり」というものである。耳の聞こえない人は他の感覚を総動員して聴覚を意識する。これをバーチャル・リアリティという。こうして獲得された理解は21世紀の新たな知「身体知」に含まれる。
  従来の経験知や科学知は、一種の型ないし基準にはまっている。前者は経験という基準に、後者は数量という基準に。最初はそれも大切である。しかし、そうした一定の型をしっかり覚えたならば、その後はその型から、あるときは大胆に離脱してみよう。型とは何か。柔道や剣道にはきまった型がある。あるいは日本舞踊や茶道、花道にも守破離という道がある。なにごとおいてもまず、型というものを身につけ守らなければいっさいが始まらない。しかし、最も大切なことは、一人ひとりが生活する上でその型を自身に合うよう、創意工夫でもってアレンジしなおすことだ。それができてこその型である。型とは、学ぶものではあれ、はまるものではない。人はみな、自身の個性や生活環境にマッチした型をつくりだしていくべきであり、そのために必要な知的体系は、経験知と科学知を総合した身体知なのである。福沢をベースにして丸山がまとめた「知の建築上の構造」は、こうして二一世紀的に「身体知」として産みなおされるのである。


 

歴史知と多様化史観

 投稿者:やすいゆたか  投稿日:2012年 8月29日(水)21時10分51秒
     歴史知と多様化史観

佐々木:石塚さんは世界史とは何かについて原点に戻って考え直そうとされていますね。

やすい:ええ、第二次世界大戦後、米ソの二大超大国の支配で、西欧を中心にした世界の見方が崩れました。旧植民地諸地域での新興独立諸国は独自のアイデンティティとディグニティーを再認識しようと自らの歴史を書き始めたと言います。

佐々木:最近韓流時代劇がすごい大作を作り始めていますね。高句麗の建国を描いた『朱蒙』、高句麗を強盛大国にしたムヒュルを描いた『風の国』などです。あまりに民族主義が強すぎて、かえって中国や日本に侵略された被害者の立場で帝国主義に反対するというよりも、むしろ帝国主義にやられたくなかったら、自ら大帝国を築くべきだという主張になってしまっていますね。

やすい:全くその通りで、現在韓国が経済的に成長が目覚ましく、日本を凌ごうとする勢いなので、それが映画に反映しまして、『朱蒙』や『風の国』だけ見ていますと、反日本帝国主義の立場からむしろ日本帝国主義の継承者に成りかねないですね、

佐々木:韓流時代劇でも『チャングムの誓い』ように朝鮮の医食同源に基づく食文化や伝統医学を紹介したり、また舞踊など民族文化を掘り起こしたりしたのもあります。今まで日帝支配下で忘れ去れ、埋もれてしまっていた朝鮮の歴史を再構築しようという意気込みがありますね。それを通して朝鮮・韓民族の個性や尊厳を取り戻そうしているわけです。

やすい:従来歴史と言えば、王朝変遷史、実証的政治史、あるいは経済発展史に偏りがちだったのが、社会史、民衆史、異文化交流史、多文化共生史などが世界各地で研究され始めています。韓国の場合は、韓流時代劇が民族の誇りを取り戻すだけではなく、世界に韓国を売り出す輸出産業にもなっていて、そういう新しい歴史の見方もふんだんに取り入れていけば、グローバル化の波に乗ってますます繁栄するのではないでしょうか?もちろん日帝と同じ論理の民族主義は抑えてもらわないと困りますが。

佐々木:科学技術の発達を基礎にした経済の発達から歴史を捉える、政治経済領域を中心にする歴史観、科学知至上的な歴史認識には限界がある。文化領域を中心にする歴史知的研究視座の確立を掲げておられますね。具体的にはどういう意味なのでしょうか?

やすい:政治的な重大事件のつながりを追っていったり、様々な統計学的資料によって科学的に経済の発展史を科学的に跡付けるだけではだめで、そういう理性で歴史を解釈するだけではなく、どのように体験し、生活してきたのか、何を愉しみ、何に苦労したのかという感性や感覚、喜怒哀楽や人情の移り変わりみたいな生きた歴史でしょうね。確かに膚で体験した生の歴史というのも一つの知です。歴史知ですね。それが大切だというのでしょう。

佐々木:近代日本は第二次世界大戦を境に戦士から白鳥になったというのが、やすいさんの『長編哲学ファンタジー ヤマトタケルの大冒険ー戦士から白鳥へ』のテーマだったのですが、侵略戦争を拡大していって、結局泥沼にはまって、最後は散々な目に遭い、つくづく厭戦的になって戦争はもうこりごりだということになったわけですね。これも体験知ですから、理窟より身を以て戦争の悲惨を思い知って、戦争放棄、戦力不保持、国の交戦権否認の憲法第九条を選択しました。これは歴史知の領域です。

やすい:戦前の日本軍国主義は、日清戦争で日本が勝ったことが大きかったですね。装備の近代化の点で北洋艦隊を持っていた清国の方が先んじていたのですが、士気の点で日本は清国を圧倒していました。いざ合戦となると日本兵は命を惜しまず、我先にと突進します。清国兵は我先にと散り散りになって逃げるわけです。近代化されていた装備も訓練で気合が入っていないので、清国軍は使いこなせなかったようです。

佐々木:やはり、清国兵は大部分が漢人ですね、ところが清国の支配者は韃靼人なので、国のために死にたくはなかったということでしょうか。

やすい:アヘン戦争や清仏戦争でも士気が低かったので負けてしまったのです。蔣介石は、日本陸軍に入隊した経験があり、それで根性が座っていて、上海マフィアの首領と兄弟分になり、国民党の軍学校で校長になって、国民党軍を作ったのですが、日本軍には済南事件で手痛い敗北を喫し、それがトラウマになったようです。日本軍とは戦いたくなかったのです。

佐々木:それが戦後は立場が逆転しましたね。日本はもう二度とは戦争しないというのが本音であって、自分の武力で国を守り、権益を保全しようとは考えていません。尖閣列島を中国海軍に制圧されたら、命張って戦いますか?

やすい:もう命張って国を守るのが善という価値観から脱却したのですから、侵攻されたら明け渡したらいいのです。それは決して放棄ではありません。「国際紛争を武力による解決」をしないだけで、国際社会に訴えて、国際法に基づいて解決してもらおうという立場です。その場合『憲法第九条』で武力行使できないと分かっていて侵攻した中国のアンフェア―を大いに訴えればいいのです。日本人はすっかり白鳥に成ったのですから、国を守るために命を張って戦うのだという虚勢を張る必要はないです。

佐々木:国際世論は日本に味方してくれるでしょうか?それならどうして日米安保条約があり、米軍基地があるのかとなりますね、日本の態度は一貫性がないと思われるでしょう。

やすい:ええ、解釈改憲で第九条を形骸化してしまっておいて、それで今更第九条を盾にしようとしても通用しませんね。ただ辺境の領土係争地の帰属問題と、本土防衛は次元が違うので、領土係争では武力行使できないという解釈は、解釈改憲でも成り立つ余地はあるでしょう。実際国民の世論としても、尖閣諸島を中国海軍が占拠してしまった場合に、艦隊で奪還戦闘を行うことは支持しないでしょう。

佐々木:やすいさんはもう日本人は戦前のような戦士ではなく、白鳥なのだから、そういう自己認識の下で行動すべきだということですね。これも歴史知ですか?

やすい:歴史知的研究視座ということで、文化史の重視が語られています。各国の歴史でも世界史、人類史でも様々な文化がどのように発達し、互いに影響し合い、衝突し、また共生してきたか、ということに注目するわけです。

佐々木:グローバル化に伴い、文明間の衝突も厳しくなりますが、影響し合い、融合し合う面も深まっていくわけで、ますます文化史という視座が重視されるでしょう。またグローバル化の中で日本が存在感を持とうとすれば、当然日本文化とはなにか、日本的霊性とか日本精神などについての自己認識も問われますね。

やすい:いよいよ今週の土曜日に「歴史知研究会」が東京電機大学であるのですが、私は「日本的霊性からネオヒューマニズムへ」というテーマで報告します。鈴木大拙著『日本的霊性』は、鎌倉時代になってやっと日本的霊性に達したというのです。だから深い宗教的覚りと霊性を受け止めているわけですね。しかも最澄・空海といった日本仏教史上で最大の宗教家も日本的霊性に到達していないというわけです。
佐々木:神道の方からは大変評判が悪いようですね。日本的霊性と言えば、当然日本固有の信仰があげられるべきなのに、親鸞、道元などまでは霊性に達していないというわけですから。

やすい:しかも、親鸞只一人のために阿弥陀如来は存在するみたいな、個我と超越者の直接的な関係に「日本的」というのを見ようとしますね。一体、そのどこが日本的なのか説明がないわけです。極めて近代西洋的ではないですか。
 ただあるのはインドは但空の淵に沈み、支那は因果に過ぎないという認識ですね、極めて独断的な図式主義です。浄土三部経も法華経もインドで生まれたわけですし、中国仏教史も因果論に還元できるようなものではありません。

佐々木:個我の救済が人類の救済につながるというのは、おそらく釈迦族を棄てたガウタマ・シッダールタ王子の問題意識に既にあったかもしれませんね。やはり日本的宗教性と言えば、自然信仰であったり、怨霊信仰であったりするのでしょうか?

やすい:特に「日本」という地域性で言えばどうでしょう。わりと未開の素朴な信仰が生きているわけですが、そういうのは中国やインドでも地域の信仰は似たようなのがあるかもしれませんね。
石塚さんの専門のフェティシズムはアフリカと日本が本場みたいに言われます。石ころあるいは岩石信仰とか蛇信仰は日本中に見られますし、自然物がそのまま神として祀られるという傾向は、日本だけではないにしても、豊かな自然の恵みを受けて自然との融合を志向する日本の特徴ではないでしょうか?

佐々木:何故鈴木大拙は素朴な自然信仰に「日本的霊性」と名付けなかったかですが、やはり西欧近代の個我と超越者の直接的な対峙に価値基準があったせいでしょうか?鈴木は禅を英語で世界に分かりやすく紹介していますね、欧米人に理解されようとするあまり、近代西欧的な信仰の形が霊性が高いと思うようになったのかもしれませんね。

やすい:霊性のレベルというのも多面的な評価の基準がある筈でして、逆に、石ころや蛇にまで霊性を認めたり、霊験がなければ攻撃するような身勝手な自由さに高い霊性を見出すのもありなわけです。その方が観念で作り上げた空想上の超越者に身をゆだねるよりはるかに霊性が高いとも言えないことはないわけですね。

佐々木:ところがそういうフェティシズムは最も始原的な信仰で、幼稚だと思われがちです。マルクスは、最も文明の発達の極致の資本主義で最も強力に信仰されているのが、皮肉にも最も原始的なフェティシズムだといって、啓蒙されればされるほど未開に戻るという「啓蒙の弁証法」で資本主義を批判したわけですね。

やすい:石塚さんはミュトスとロゴスを対置されました。ミュトスとは見たまま感じたままを声にして話すことだとされ、ロゴスは現象の意味や概念を説明することだとされます。これを神話に適用しますと、見たままのもの、感じたままのものを神とするのがフェティシズムで、これはミュトスです。それに対してオリュンポスの神々がいてそれが自然現象をつかさどったり、自然現象になって現れるギリシア神話はロゴスになるわけです。

佐々木:ミュトスの場合、存在がそのまま神なのですが、ロゴスでは、神は観念や概念であって、その現れが自然現象なのですね。観念と事物が二元論的に分かれて、自然物はそのままでは神でなくなってしまっている。観念としての形而上学的な本体の世界が現象界と二元論的に対立している。しかもそれが形而上学的な観念に支配されることになる。ここに神と自然、神と人間、人間と自然の分裂の根源を見出して、一元的なミュトスの世界に戻れというのが、ハイデッガーの存在論的転回ですね。その観点から見ると、ミュトスの方が霊性が高いことになります。

やすい:ええ、だから素朴に石ころや蛇を神とするフェティシズムの方が、超越神論より霊性が高いと言えないこともないということです。理性的な科学知的視座だけでみるのではなく、感覚や感情からも見直す歴史知的な捉え方をすれば、未開で幼稚ということで素朴な自然信仰を「日本的霊性」と打ち出すことを躊躇することもなくなるわけです。

佐々木:石塚さんは、ケルト文化に歴史知を見出しています。ケルト人もキリスト教を中世になってから受容しますが、自然信仰を受け継いで、泉や森や風、穀物や大地の神々に支えられるキリストというイメージをケルトの十字塔は表現しているということです。これは正統派のキリスト教からみれば、霊性が低いことになるかもしれませんが、歴史知的に見れば、生命の循環と共生という意味では、正統派が見失った霊性を保存しているともいえるわけです。

やすい:歴史観について、19世紀になって政治史・経済史・文化史という重点の違いはあっても、進歩史観や発展史観が循環史観を克服してきたわけですが、近代の終焉を迎えて、近代文明の負の遺産が大きくなって、人類のサバイバル自体が危機にあるのが実態です。そこで石塚さんは、理性と科学精神で人類のさらなる発展を希望しつつ、同時にそれがもたらしている負の面も直視して、経験知や感性知も動員して克服していこうというスタンスです。

佐々木:その場合に、理性と科学的精神が発展で、経験知や感性知が発展的ではないということですか?それと経験知や感性知を重視すべきだということはその通りだとしても、理性や科学というのも経験や感性が欠けていたら本来駄目でしょう。
 よくヘーゲルの理性主義を批判してフォイエルバッハの感性の立場などが強調されますが、ヘーゲルの理性というのは『精神の現象学』でも感性・悟性・自己意識・理性という展開を踏まえているわけです。

やすい:ヘーゲル哲学をフォイエルバッハが見事に乗り越えたみたいに思っていたけれど、お釈迦様の掌の上の孫悟空に過ぎなかったかもしれませんね。ただし、やはりヘーゲルの発展の近代を代表して、発展の論理にしか興味を示さなかったし、弁証法も二項対立図式に還元した形でしか示しえなかった。理性は感性や悟性、経験知を止揚しているとはいえ、それらをどのように生かすのかという点で、展開は不十分でしょう。そういう意味では、発展的な科学知に対して、生活体験に根差し、民衆の喜怒哀楽や苦難、怨嗟などを踏まえた知というものを対置してコントロールすべきだという歴史知的視座は大いに意義があると思いますね。

佐々木:石塚さんは「evolution」を進歩・発展だけではなく、一部の器官が発達すると、他の器官で退化するのもあるわけで、種が環境に適合するために多様化することと捉えています。歴史のevolutionも多様化として捉えようとされていますね。

やすい:その場合歴史知的意識からの循環史観と進歩史観の連合として多様化史観を提起されています。例えば韓流時代劇で『朱蒙』『風の国』などを観ていますと、漢民族に支配されたくなかったら、自ら古朝鮮のような強盛大国を作らなければならないと、弱小民族を侵略、併合して大帝国を建設することを無条件で賛美しているわけです。これはまさしく明治維新で、日本が清国のように欧米帝国主義に蹂躙されないためには東アジアに大日本帝国を建設しようとして、朝鮮を併合し、満州を勢力圏に入れていったのと同じ論理ですね。このような意味では歴史は繰り返すと言えるかもしれませんが、日本の近代史は戦士から白鳥に変身しており、戦争はもうこりごりなわけで、韓国が大日本帝国を継承しようとしても現実的には無理でしょう。

佐々木:それを戯画的に試みているのが北朝鮮で、先軍思想で、核開発や軍事挑発などの恐喝で経済援助引き出して、経済的な破綻を取り繕っているわけですね。韓流時代劇は北朝鮮でも受けているということらしいです。まあ、この例は極端ですが、経済などで修正資本主義的な経済政策が破綻すると、古典的な自由主義的市場経済に戻そうとしたり、それで矛盾が大きくなると、また福祉重視に戻ったりとかの循環はあるようですね。

やすい:法則的に同じことを繰り返す循環は、資本主義社会では景気循環が科学的に捉えられました。経済のグローバル化が進展しているので、グローバルな規模での景気循環になるかどうかということが大きな問題です。その他に服飾文化の領域では流行ファッションの循環があると言われますね。石塚さんの言われる循環はどういう形なのか具体例での分かりやすい説明がほしいですね。

佐々木:発展に関してですが、ヘーゲルやマルクスなどでは矛盾を原動力にして発展していくわけです。それで矛盾対立がなくなれば、発展もなくなり歴史が終わるというようにヘーゲルの歴史哲学を受け止めまして、東西冷戦の終焉によって歴史は終わったとフランシス・フクヤマは『歴史の終わり』を説いたのです。実際は、東西冷戦で抑え込まれていた文明間闘争が表面化しまして、文明間闘争の時代の様相も現れました。他方、グローバル化は不可逆的に進み、グローバル化の時代が開始されているわけですね。もちろんこれには何度も揺り戻しがあると思いますが、科学技術、生産力の発展によって、地球が一つの村ぐらいになるグローバルヴィレッジ化が進行していくわけですね。


やすい:そこまで視野に入れれば、また違った歴史観が必要でしょうね。それまでに戦争や環境破壊などで人類が滅亡してしまわないかが問題です。そのプロセスでこれまでにあったいろんなトラブルの型が繰り返されたりしないかということですね、そのことも重大な関心を持たなければならないわけです。そういう意味でも歴史知的視座に基づく多様化史観の役割は大きいのじゃないでしょうか?


 

記号図像の哲学思想

 投稿者:やすいゆたか  投稿日:2012年 8月29日(水)21時08分23秒
       記号図像の哲学思想
ーフィジカルな現実とメタフィジカルな現実ー

佐々木:では「記号図像の哲学思想」に入ります。記号図像が使われていると、元の意味を離れていろんな別の意味を持つようになったり、記号だった筈が、それ自身が実体として能力や威力を持つかにみなされるようになるという現象をとりあげているのですね。

やすい:それを記号図像の示すフィジカルな現実とメタフィジカルな現実の対置という形で考察してみようということです。

佐々木:まずフェティシズム論が取り上げられ、フィジカルな信仰対象を「フェティシュ」と呼びます。具象神、物神ですね。それに対してメタフィジカルなレベルの信仰対象を「イドル」と呼びます。偶像神、依代(よりしろ)ですね。ようするにフェティシュの場合は、蛇なり、石ころなりが神として崇拝されているわけで、蛇や石ころに宿っている神霊を崇拝しているわけではないということですね。

やすい:逆に偶像崇拝の場合は、偶像は、まがいものであって本物の神ではないのです。だから超越神論からは偶像を崇拝するのは神を冒涜することになると言われます。つまり本体の表現に過ぎないわけで、その限りで聖性を持つに過ぎないのです。でもその偶像性さえ分かっていれば、偶像が表現している神霊は信者に対して絶対者ですから、偶像破壊はその絶対者への冒涜につながるので、偶像を傷つけたりしてはいけないということです。

佐々木:フェティシュだと信徒に要求に応えられないと、虐待されたり、捨てられたりするけれど、偶像だとそれはできないわけですね。ただし、実際には偶像も愛着されると何かの記号にすぎないのではなく、それ自体が聖性を持つかにフェティシュ化されるということですね。「おらが村のマリア像」になるわけです。

やすい:仏像などはフェティシュ的な意味合いが強いですね。でも異教徒から見ると偶像崇拝に見えるわけですが。阿弥陀像自体が阿弥陀仏の現前のごとく信者に意識されているようなところがあります。

佐々木:キリスト教は偶像崇拝を禁止している超越神論なのに、記号図像としてキリスト像やマリア像を拝むことを十字架崇拝と共に認めています。像自体はキリストではないけれどキリストの表現としては崇拝してよいということですね。

やすい:ええ、それがいつしか像自体が聖性を帯びてくると、超越神論が破綻してしまう危険性がありますね。

佐々木:ですから偶像とイコンの区別だとか、偶像とフェティシュの区別に拘るのは、神霊というのが実体としてあって、それが事物に宿ったり、事物に表現されたりすると考える物心二元論をとるべきかどうかに関わっているわけですね。
やすい:石塚さんが共感しているフェティシズムは、人間の感性、あるいは感性が構成する具象を超えた、それ自体で存在するような神霊を認めないところでしょう。自分の感性で確かめうる事物に自己の意志を吹き込んで自己の身体的なパワーを増幅させるものがフェティシュなのです。

佐々木:ようするにフェティシュは、それを崇拝する人々にとって非有機的身体だということですね。拡大された自己だということで、一体化の儀礼で、自己の身体能力の限界を突破できるわけでしょう。だからフェティシュが願いを叶えないと、暴力的に身体から切り離すことになるわけですね。

やすい:自分たちと一体ではないことをはっきり示すためにあえて敵対し、破壊するということでしょうね。それに対して偶像の場合は、神という観念的実体の表現であり、自己の身体化すべきものでも、身体から切り離すべきものでもないということです。そのような観念的実体の崇拝になったときに宗教が成立したということで、フェティシズムは宗教ではないとされますね。

佐々木:やすいさんの宗教概念は広くて、三L教では光・命・愛はだれもが信じ、頼らざるを得ないもので、そういう依存関係に心身をゆだねる状態を宗教だと捉えておられますね。

やすい:ええ、陽はまた昇ると信じていますし、命を与えてくれる動植物や自然環境に感謝し、自然や人々のつながりに喜びや執着を感じています。そういう態度は宗教だと言っていいと思いますね。
 

石塚正英とやすいゆたかの対談企画

 投稿者:やすいゆたか  投稿日:2012年 7月10日(火)05時26分43秒
  石塚正英とやすいゆたかの対談企画

   歴史知研究会 第42回報告会

期日:2012年9月1日午後2時~6時
会場:東京電機大学千住キャンパス1号館2階1215セミナー室
報告者:やすい・ゆたか 石塚正英
テーマ:歴史知・フェティシズム・ネオヒューマニズム
内容:
★第一部 日本的霊性からネオヒューマニズムへ
1.日本的霊性とは何か―鈴木大拙の霊性の基準は日本的か?
2.日本の自然信仰・事物信仰・霊信仰はアニミズムだったか?
3.和の精神と仏教的慈悲・天台本覚思想の覚り
4.本居宣長と西田幾多郎―「物のあはれ」と「物となって考え、物になって行う」
5.現代ヒューマニズムからネオヒューマニズムへ
6.21世紀とネオヒューマニズム

★第二部 歴史知とフェティシズム
1.キリスト教の中の原初的信仰―マルクスを論じてフォイエルバッハに及ぶ
2.神話の二類型とその意味―ミュトスとしての神話とロゴスとしての神話
3.儀礼の二類型とその意味―フェティシズムの儀礼とイドラトリの儀礼
4.フェティシズム・歴史知・アソシエーションの関係
5.複合科学的身体論の可能性―フォエイルバッハを論じてフッサールに及ぶ
6.歴史知と多様化史観―循環史観と進歩史観のさきへ

総括 歴史知とネオヒューマニズムの接合―21世紀の良識に成り得るか


 

歴史におけるファナティシズムの役割

 投稿者:やすいゆたか  投稿日:2012年 5月 6日(日)11時26分1秒
  石塚正英論集グループ5…歴史知
歴史におけるファナティシズムの役割

佐々木:「歴史におけるファナティシズムの役割」というちょっとこわい論題の論文の検討に入ります。

やすい:これは直接には二〇〇一年の「九・一一」自爆テロの衝撃を受けて、歴史におけるファナティシズムの役割を見直そうとしたものですね。

佐々木:ファナティシズムは「狂信」ということですから、ある教義や原理を絶対視し、それに外れていたら抹殺しようという衝動に駆られて、大量殺害を伴う場合が多いですね。

やすい:ええ、それでファナティシズムは衝撃が強すぎるので、歴史的な役割がきちんと押さえることができなかった。それを歴史知的視座から見直そうというのが石塚さんの狙いのようですね。

佐々木:狂信的ないわば滅茶苦茶な行為なので、それを知とは正反対の行為としてしか評価できないものですが、歴史知からみるとちゃんと理窟にかなっているということなのでしようか。そしてそれが歴史的にも大きな役割を担っているというわけですね。ファナティシズムを肯定的に捉えていると顰蹙を買わないですか?

やすい:人道的にみて、また倫理学的に見て、大量殺戮は絶対に許されない蛮行ですが、それがどういう歴史知的な了解の許で遂行され、どのような結果をもたらしたかは、きちんと総括されなければならないということなのでしょう。

佐々木:そういう意味では、プロレタリア文化大革命やオウム真理教事件こそファナティシズムの典型だと思いますが、石塚さんが取り上げたのは世界史から十字軍、スペイン人のインカ帝国破壊、トマス・ミュンツァーのドイツ農民戦争ですね。

やすい:ナチスによるユダヤ人のホロコーストや日本軍の南京大虐殺もファナティシズムでしょうね。モンゴルのチンギスハーンは、侵略する町に降伏勧告を突きつけ、抵抗すれば町中の人々をすべて殺して、死体を頭と胴に分けて積み上げたといわれています。彼は世界征服を自分の時代に成し遂げようという信念のもとに、一番手っ取り早い方法を択んだわけですね。

佐々木:確かに世界統一という理念に最上位の価値を置けば、人類の悲願達成の犠牲者が膨大な数になっても言い訳が付くと思ったのでしょうね。だから現代でもモンゴルや中国ではチンギスハーンは偉大な英雄ですね。

やすい:ええ、日本でも織田信長が歴史上の人物で最も人気がありますが、彼は「天下布武」を目指して、そのことに価値を見出し、その為の犠牲は当然だとして敢えて大虐殺を敢行したのですから、非常にファナティックだったわけです。
佐々木:やすいさんは、オウム真理教事件に大変衝撃を受けられ、それがハルマゲドンという「ヨハネ黙示録」から影響されているので、キリスト教会に「ヨハネ黙示録」の聖典からの削除を求められましたが、最終戦争で不信仰の旧人類は、信仰の立場に立つ新人類に滅ぼされるという啓示ですね、これも歴史知の一種ですね、それに依拠しているわけです。

やすい:オウム真理教事件は、九・一一の前座の役割を果たしたという意味でも、歴史的役割は大きかったでしょうね。とても恐ろしいことではあるのですが、それに狙いにおいては、オウム真理教事件の方がスケールは大きいですね。

佐々木:九・一一は自爆テロという形にすれば、グローバル経済の中枢である国際貿易センタービルを崩落させ、アメリカの軍事的覇権の中枢であるペンタゴンでも攻撃できることを立証しました。そして二一世紀型の戦争は、旧来の国家間の戦争は例外的になり、国際的なテロ組織や宗教カルトが、ミニ核爆弾や毒ガスなどで人類の存続を脅かすのに対処する形で行われるということです。

やすい:そうですね、そういう意味からもファナティシズムは人類的な破滅を招きかねないものとして大いに警戒すべきことだとも言えます。

佐々木:本格的な核戦争が起こるとすれば、先制核攻撃をかけなければ、相手の先制核攻撃で絶滅させられるというテーゼを信じ込んで、いわば歴史知的な判断でファナティシズムで行われるわけでしょう。

やすい:ええ、こちらから先制攻撃しない限り、相手からの先制攻撃はないだろうという判断も科学知的には可能なのですが、相手に対する憎悪や不信感が極度に増幅しますとやりかねないでしょうね。

佐々木:その点、石塚さんの場合はわりとファナティシズム的な現象をよくあることみたいに捉えていて、積極的な役割も歴史的にはあるということを冷静に評価すべきたと言われているようにも受け取れますから、ちょっと怖い気もしますね。

やすい:これも対談で直接確かめますが、歴史を達観されておられるところはあるかもしれませんね。

佐々木:九・一一事件のプラス的な評価としてはアメリカの核独占による軍事的覇権が決定的に揺らいだということでしょうか?

やすい:ええ、我々はテロリズムにはあくまでも反対ですが、アメリカ一国が軍事的優位に立って勝手に戦争させないというようなパックス・アメリカーナにも反対です。あくまでも国際社会が協調して世界平和を維持する集団安全保障を確立すべきだという立場です。その意味では、あくまでも戦争には反対ですが、世界資本主義の本拠地ニューヨークの国際貿易センタービルを崩落させ、アメリカの軍事的覇権の中枢、ワシントンのペンタゴンを直接攻撃したのは画期的な意義があります。

佐々木:核兵器が小型化・低廉化すれば、長距離ミサイルによるアメリカの軍事的優位は崩壊するわけで、アメリカの軍事的覇権というのも次第に幻想だということになってきますね。一カルト集団が全人類相手にハルマゲドンを挑むという歴史知的構図が、現実味を帯びるわけで、それがオウム真理教事件であり、アルカイーダという国際テロリスト集団の台頭なのです。

やすい:そうですね、米ソという二大超大国の対決による第三次世界大戦の悪夢から醒めたと思ったら、今度はまるで劇画みたいな世界支配を狙う秘密結社に全世界が震え上がらされるという構図になっているわけです。もちろん北朝鮮みたいな弱小国家が核武装して世界を脅すこともできるわけです。これは世界を相手に軍事力で対抗するのをヒロイズム的に肯定するならば、一種のファナティシズムですね。だから実際に破滅に向かって暴走するリスクがあるので困りものなのです。

佐々木:ファナティシズムの歴史的事例で「千年王国説」が十字軍による大虐殺に果たした役割が論じられています。地下に閉じ込められていたサタンが浮上してくるのが西暦千年前後と考えられていたので、十字軍はファナティックに大虐殺をしたというのですが。

やすい:「ヨハネ黙示録」の読み方によってはそう受け止められたかもしれませんね。それがエルサレムにいたイスラム教徒の皆殺しの原因だったかどうか、検証は難しいでしょうが、ともかくエルサレムがイエスをはりつけにした呪われた町であり、その町が裁かれる場合には、火の雨が降ったソドムより残虐な裁きになると考えられていたかもしれませんね。イエスは弟子たちに布教に行かせたときに、その町で無視されたら、靴の土を払うときにこの町が裁きの時にはソドムよりひどい目に遭うという呪いの言葉を投げかけて、その町を去れと言っています。

佐々木:愛の宗教のはずのキリスト教が、実は非常に恐ろしい審判思想をもっていたということなのですね。

やすい:「信じる者は救われる。」ということは「信じない者は裁かれる」ということと表裏一体なのです。「信じる者は救われる」としても「信じない者でも救われる」のだったら、厳しい掟を守ったり、禁欲的な生活をおくる意味がなくなります。また圧政や収奪で富栄えて一生を終えた権力者や大金持も救われるのなら、庶民の苦労は報われないと思ってしまうらしいのです。ですから宗教として信徒の心を深く掴もうとしたら、救済だけ説いてもだめで、恐ろしい神の審判についても言及しておく必要があったのです。

佐々木:ファナティシズムの場合に、神の審判を人間が代行してしまうところが問題ですね。そうなれば困るので、裁きは神のみがするので、神の命令だと言って裁きを行ってはならないとキリスト教ではされているようですが。

やすい:ええ、でも例えばイエスは神の代わりに裁きを行うと考えられています。彼は子なる神なので特別だとしても、ヨシャの時代にカナンに入ったヘブライ人たちはカナン人をほとんど絶滅させましたが、それは子供の肉を生贄にして食べ合う宗教儀礼をカナン人が行っていたので神が裁かれたと説明しています。

佐々木:遺跡調査の結果そんな大虐殺はなかったということらしいですよ。

やすい:歴史的事実かどうかよりも、そういう裁きが『旧約聖書』に記されていて、ホロコーストが肯定されていることが問題なのです。考古学的に否定されたときにユダヤ教会やキリスト教会が、神に代って審判したとする記述は誤りで、そのような行為は恐ろしい大虐殺であり、人類に対する重罪な犯罪であったと反省すべきだったのです。そういうことは一切していないわけですから、同じような状況下ではまたファナティックなホロコーストが再現される可能性があるのです。

佐々木:ユダヤ人はナチスに数百万人も収容所で大虐殺された被害者のイメージが強いのですが、元々は加害者でもあった、しかも未だに反省していないということになりますね。

やすい:それはキリスト教徒もイスラム教徒も聖典として崇めている以上同罪でしょう。ユダヤ人はイエス処刑に関しては、『新約聖書』の福音書の記事を否定して、当時のユダヤ教は寛大だったので、イエスの処刑を要求したはずがないと言いますね。『新約聖書』を読んでいますと、偽メシアとみなされただけでなく、イエス教団はユダヤ社会の律法的秩序を揺るがし、律法ではなくメシアによって救われることを説いたので、大きな脅威であったと思われます。だからむしろイエスの処刑はユダヤ教にとってやむを得なかったと認めるべきなのです。

佐々木:そしたらイエスの仇として虐殺されませんか?

やすい:イエスの仇であることを認めないから、「福音書」を偽書扱いされたとして余計に恨まれるのです。ユダヤ教徒としてはユダヤ教会の記録にないので、真偽のほどは明らかではないが、もし福音書に書かれていたことが事実なら、イエスはキリスト教的には真っ白で無罪であっても、ユダヤ教的にはユダヤ社会の存立にかかわる罪を犯しているので有罪であると主張すべきだと思います。いずれにしてもファナティシズムの原理から考えて、歴史知的にはユダヤ人を殺そうとする衝動をキリスト教社会は潜在的はもっているのです。

佐々木:中南米でインディオ達に対するスペイン人の暴虐がラス・カサスによって報告されていますが、歴史知的にみて、キリスト教の教義との関連はどうなのでしょう。

やすい:キリスト教徒たちは自分たちは、聖霊を宿しているので、
聖霊を宿していない異教徒は聖なる存在ではないという意識があります。これがインカ帝国の宝や植民地支配にとって邪魔ならば蛆虫のように殺してもよいという考えの根拠になります。また中南米では宗教的カニバリズムの風俗が残っていまして、それだけ野蛮だということですね。それで神罰を与えるつもりもあったかもしれません。

佐々木:アレンズ著『人喰いの神話』によるとそういう話は全部伝聞で信用できないそうですね。

やすい:いや、アレンズたちが敢えてそういうのは、他人の人喰いを指摘する人は、自分はしていないことを言いたいからで、かえって他人の人喰いばかり問題にしていると、その人が人喰いをしていると疑われるということです。だから確たる証拠もないのに人喰いを指摘するのはやめよう、そうでないと我々キリスト教徒も人喰いを疑われることになると言いたいのです。

佐々木:キリスト教徒が人喰いだという噂は古くからあったようですね。アフリカで人喰い人種の調査をしているキリスト教徒たちが、調査対象から人喰いだと疑われていたようですから。

やすい:ええ、だってキリスト教の教会のメインの儀礼が聖餐ですからね。これは主イエス・キリストを聖餐する儀礼です。日常的に教祖を礼拝の度に食べているのだから、人肉を食べているとしてもおかしくないと疑われる恐れがあります。

佐々木:マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、キリスト教国、イスラム教国や元では人喰いは見られないものの、その他の国々では人喰いが行われていたように書かれています。そういう歴史知がファナティックな殺戮を可能にしたのかもしれませんね。

やすい:「ジパングでは人質にとった者を身代金が十分に払われなければ親族を集めてみんなで喰ってしまった」というようなことが書かれてあったようですね。野蛮とカニバリズムを結びつけ、野蛮人の烙印を押された者に対してファナティックな暴虐が可能になったのかもしれません。

佐々木:実はキリスト教徒が、異教徒のカニバリズムをファナティックに攻撃するのは、精神分析学でいう投射であり、自らの根源的なイエスへのカニバリズム体験を否定するためであるというのが、やすいさんの解釈ですね。

やすい:逆に中国では魯迅の『狂人日記』のように、「礼教は人喰いだ」とすることで、伝統思想を払拭するために、カニバリズムと伝統思想を結びつけます。キリスト教やマルクス主義は、伝統思想をファナティックに攻撃するための根拠地になるわけです。

佐々木:しかしそのキリスト教こそ宗教的カニバリズムを中核的な秘儀にした宗教だったというやすいさんの指摘は、その意味でキリスト教の急所を衝いていますね。その意味では人喰いと殺人は人間の根源的な衝動だと指摘していたフロイトは流石ですね。

やすい:礼教で親孝行を強調しすぎて、それがファナティックになった結果、理性が狂わされて、カニバリズムが呼び覚まされたのであって、礼教自体がカニバリズムではないわけです。魯迅が「礼教は人喰いだ」と言ったのは、あくまで「狂人日記」というファナティックな礼教批判の中でであって、魯迅自身が正気ではないのです。ファナティックにならなければ、礼教と断絶できず、礼教と断絶できなければ皇帝独裁の東洋的原理から脱却できないと思い詰めていたのです。

佐々木:石塚さんは、ドイツ農民戦争のトマス・ミュンツァーをファナティシズムの観点から再評価されていますね。

やすい:ルターVSミュンツァーというのは非常に魅力的なテーマですね。ルターはローマ教会からの解放を叫び、バイブルによって神と直接つながろうとしたわけですが、この解放のためにも領主権力と結びつかざるを得なかった。そして領主権力は支配のためにルター派の教会権力を必要とした。だから宗教改革は、教会権力の分裂でしかなかったわけです。神と人々の心を隔てる教会や領主権力の一掃にはならなかったわけです。ミュンツァーは神への愛と隣人への愛に戻って生きるイエスの時代の共同体への回帰を叫び、ローマ教会や領主権力を一掃すべく戦ったわけで、きわめて原理主義的ですね。

佐々木:しかしそうなると領主や教会やそれらの利権につながるすべての物を葬らなければならなくなり、大量の殺戮を伴うファナティックな運動になってしまったわけですね。

やすい:もちろんミュンツァー側だけがファナティックだったのではなく、それに反撃しようとしたルター側もファナテッィクに農民戦争を弾圧し、凄惨な殺し合いになったわけです。

佐々木:ということはやはり、エンゲルスがいうようにミュンツァーの目指していたような宗教的共同体の実現には物質的基礎がなかったということでしょうか?

やすい:結果論としてそうでしょうが、カウツキーのいうように、戦い方次第では一定地域にミュンツァー派の解放区ができたかもしれません。もちろん長続きは難しかったでしょうが。

佐々木:石塚さんもブロッホを引用して、ミュンツァーの「絶対的自然法」的立場がこの時代を揺り動かすファナティシズムの原理として歴史的有効性を持ったのだとして、歴史知的に「絶対的自然法」を評価しています。

やすい:絶対的自然法は、神の理念と一体して神の意志を人間が実現するという立場ですね。そのために人間は存在していると考えるのでしょう。ルターやカルヴァンだと神と人間との断絶が前提だから、神から与えられる範囲で分相応の社会的現実と和解し、妥協しなければならないという「相対的自然法」なのでしょう。絶対的自然法で神の意志と一体化したと感じるとファナティックに使命感に燃えて行動するわけで、歴史を動かすわけですね。

佐々木:やすいさんが、最近教育改革で、橋下さんが小学校でも留年させた方が本人のためでしょうと言ったのに対して、そもそも留年なんて学年制を前提した議論はだめなんで、徹底して本人の学習プランに即して小中高大の垣根を取っ払った単元単位制を実施すればいいというラジカルなプランをぶちあげましたね。あれはどっちかというと「絶対的自然法」的発想ですね。

やすい:理念として学校と職場の統一、つまり生涯学び、生涯働くという原理の導入を念頭に、小中高大の区別の解消まで見通して語ったので、単なる理想論と受け止められたかもしれませんね。今は近代が終焉し、新しいグローバル統合の時代に入りつつあるので、教育理念を新しい時代に相応しく抜本的に再構築しなければならない時期なのです。ですから敢えて、方向性を示しておいたのです。
ですから何も一気に小中高大をなくせというのではなくて、当面は、卒業しないと上に行けないということではなく、単元ごとに単位を与えて、上に進めるようにすればいいということです。科目によっては小学生が中学・高校内容を勉強できるし、高校生が中学内容を勉強してもいいじゃないかということです。それを制度的にできなくしているわけですね。それでは効率的な学習ができず、格差ばかり広がって矛盾が噴出し、学校が荒れてしまうのです。

佐々木:単元単位制をできるところから導入し、それに合わせて学校制度を変えていこうということですね。

やすい:ともかく深刻な学力低下で、それが就職にまで差し支えるようになっているわけです。大学でもまともな講義が成り立たないので、これでは少子高齢化で足らなくなった労働力を世界から受け入れようとすると、日本の若者の職場がなくなってしまうことにもなりかねない、大変深刻な事態だということですね。せめて単元単位制ぐらい導入できなくてはとてもじゃないが、日本の沈没は防げません。

佐々木:そういう過剰な危機意識で改革に取り組みますと、ファナティックになって、学校解体を叫び、全共闘みたいに機動隊とドンパチやることになりませんか?

やすい:全共闘は烏合の衆みたいなもので、具体的な改革案があったようには思えません。ともかく労働力商品の生産工場になっている大学が体制を支えているのでこれを解体すべきだというような論理で、具体的な改革をつめようともしないでバリケード封鎖したわけでしょう。私の案は必要に迫られて、最低限はこれを導入しようというもので、知恵を出し合えば、実現可能ですよ。

佐々木:石塚さんは、転倒した発想であっても、生きていくために様々な宗教的・フェティシズム的了解をして人間は生きており、それが歴史を動かしているといわれます。そして時には科学的な見方ややり方で行き詰って、変革を迫られたときに、歴史知的な知見を根拠にファナティックな変革や破壊にでることがあり、それは自然なことだというわけです。その結果、歴史が動き、積極的な変革が行われたこともあるので、ファティックだったから、全部滅茶苦茶というわけではないということで、もっときちんと歴史評価をすべきだと言っています。ナチスの政治にもみるべき業績がなかったわけではないというわけです。
やすい:自然なことだと言っても、倫理的にはしようがないでは済まされないので、倫理学的に批判した上で、不可抗力の面があったというべきでしょうね。そしてファナティックな行動が、暴力や大量殺害を伴わなくても済むような、知的モラル的なヘゲモニーをどう形成するかという運動の論理を構築する必要もあるわけです。非暴力的な運動もファナティックな面がなかったわけではなく、それが暴力に向かわない工夫をしていたわけですね。それを科学の名の下で、幻想だと切り捨てて革命的暴力や戦争を惹き起こしてきた経緯もあったわけです。21世紀はファナティシズムの負の面を克服することもできる筈です。


 

〈生肉身体=肉体〉と〈機械身体=機体〉のコラボレーションー

 投稿者:やすいゆたか  投稿日:2012年 4月26日(木)08時24分43秒
  〈生肉身体=肉体〉と〈機械身体=機体〉のコラボレーションー歴史知的な立場から身体を考える

佐々木:次の論文もかなり似た内容なので、先の論文についてコメントできていない部分を補う形でコメントしていきましょう。最初の歴史知についてですが、カッシーラーが人間を理性的動物という面より象徴的動物として面を基底的に捉える議論に対して、石塚さんは理性的・象徴的動物に対して感性的で具象的な動物を対置していますね。

やすい:カッシーラーは理性的認識の基底にシンボル的な表象を操作し、言葉などシンボルでコミュニケーションを交わす性質があると人間を捉えました。石塚さんはさらにその基底にシンボル以前の感性的具象的な事物との交互関係を想定しているわけです。
シンボルが何らかの心を捉えて価値的な威力を示す間は通用するのですが、やがて飽きられたり、陳腐化しますと、拒否されて生の具象的な事物に反転します。そういう意味でシンボルも一種のフェティシュだということでしょう。貨幣などは価値のシンボルとして威力を発揮していますね。しかしそれを発券している日本銀行の信用がひいては日本政府の財政上の信頼が崩壊しますと、貨幣のシンボルとしての威力はなくなってしまいます。

佐々木:日本の財政赤字は一千兆円を超えて、破綻しつつあるわけですが、それが円の暴落につながる恐れもありますね。ただ日本国民は莫大な資産を持っているから大丈夫という人もいますが。

やすい:財政の赤字が一時的なものなら大丈夫ですが、構造的に積み上がっているので、いつまでも資産で支えられる筈はありませんね。行政を簡素化し、効率化して財政支出を縮減し、余った人員は産業活動をして税収を増加させるぐらいにしないとだめでしょうね。

佐々木:フォイエルバッハの身体論は、人間をヘーゲルのように精神的な理性の立場から捉えるのではなく、自然的な身体として捉えようとします。人間関係も我の身体と汝の身体との関係であり、相手の身体はもう一人の我つまり他我(アルター・エゴ)だとします。つまりもう一人の自分、別人格という意味ですね。例えば、一人の人間が、複数の名前で何人もの人格をこなす場合などにアルター・エゴと言われますが。

やすい:「我と汝という二つの個別が対になって普遍に転化している」ということですから、二人で一つの人間が構成されていて、それが二つの人格になっているので、相手はもう一人自分だと言えるのではないでしょうか?

佐々木:その身体は自然存在ですが、その場合に、「裸の自然だとたんなる物在(Ding)に過ぎないのが、一種の存在者(Wesen)である」となっています。Wesenを〈本質〉と訳さないで〈存在者〉と訳していますね。

やすい:ただ物在として存在しているのではなく、人間がそこに自己を見出すような関係において捉えられているということでしょうか、なかなか深いですね。

佐々木:〈神に選ばれた自然〉というのですからフェティシュのことですね、それをフォイエルバッハは〈Sache〉と呼んでいるそうです。ザッヘは普通〈事象〉あるいは〈物件〉と訳されますね。日本語の語感で言ったら「そりゃあ事だぜ」という場合に、重大事を意味しますが、その自然存在が重大だというようなニュアンスでしょうかね。フェティシュの場合は〈事象〉というより〈物件〉に近いかもしれません。

やすい:なるほど、そういうように受け止めておきましょう。その「ザッヘ」は元々自然存在で、人間が我と汝の関係を取り結んで、元々人間の類的存在をザッヘに対自化させたということでしょうね。

佐々木:フォイエルバッハの場合は、感性的身体的な我と汝の関係を対人の身体、対自然事物との関係をむすぶので、そこに類的存在が実感できるのでしょう。そうすると事物もそこにアルター・エゴとしてフェティシュ的に存在することになるのですね。

やすい:フッサールの場合は、アルター・エゴは独我論に陥らないために不可欠な存在として意識されていますね。

佐々木:ええ、フッサールは現象学的還元といって、すべて主観の意識にいったん還元しますから、他者も主観の意識として現れた他者でしかありません。そうすると世界には自分の意識しか存在しないという独我論になってしまう。そしたらどうして他者が自分と同じような身体を持ち、まるで意識を持った主体であるかに振る舞うのかが疑問になりますね。ですからそのように振る舞っている他者についての意識がある限り、自分と同様に意識する主体としての他者が、私同様の別の身体をもって存在していると信憑してよいのではないかということになり、独我論を克服できるわけです。

やすい:なるほど、確かに他者も意識としては私の意識にすぎないわけですね。でもこの世に私しか存在しないのだったら、私と同じように身体を持ち、言語を話し、行動する存在があるというのは矛盾しているので、それらは単なる意識でしかないのではなく、身体をもった実在の現れだと信憑できることになり、そこから世界の実在への信憑もできるということですね。それなら意識としての他者がそのまま実在と受け止めてはいけないのですか。

佐々木:そうですね、純粋経験が唯一実在だというジェームズや西田幾多郎の立場だとそうなるのですが、フッサールの場合は問題意識が違います。意識現象がそのまま実在かどうかは確かめられないというのがフッサールの発想の根本にあるわけです。ですから一般的に言って他者が私同様、アルター・エゴとして身体的存在として意識経験される以上、その実在は信憑できるけれど、個々の意識に現れる他者が実在の他者か夢幻の他者かは確認できないということです。
やすい:じゃあ間主観性というのはどういう意味なのですか?

佐々木:おやさっきから、質問者の私が説明に回っていますね。他我がいるとなりますと、その他我と私は同一の世界にいてコミュケーションを交わし、一緒に働き掛け合って共同の世界を形成しているわけですから、同じ実在を同じように意識している筈だと信憑しているということが、間主観性ですね。

やすい:そうしますと、同じように認識していると信憑し合って、社会が成り立っているのだけれども、やはり信憑にすぎないので、やがてそれぞれの言葉の含意が違っていて、トラブルになるかもしれないので、同じ実在を同じように認識しているかどうかは本当は確かめられないことを留意すべきだというわけですね。

佐々木:ええ、そうです。それで石塚さんのいう歴史知的視座で人間関係をフッサールが捉えていたというのはどういうことなのですか?

やすい:それは石塚さんとの対談でお尋ねしなければならないことですね。私のフッサール現象学の解釈では、現象学は厳密な学として自分の意識の現れしかだれしも意識できないのだから、それが実在を言い当てているかどうかは本当は確かめられない。しかし、その意識は身体の意識として感覚的なもの、感性的なものとして捉えられますし、他者も実在して、私の思い通りにはならない独立した存在だと了解されるので、その他者と間主観的に共同の世界を形成していると受け止めて、行動するしかないわけです。だから厳密な理性では、真理性は疑えるという自覚は大切だけど、同時に間主観性を信頼して日常生活を信憑して生きることも大切なわけです。それは感覚的な歴史知ですね。歴史知でしかないという限界をわきまえていれば、それは大いに使えるのではないか、また使っているのではないかということではないでしょうか。

佐々木:ハイデッガーの存在論的転回というのはどういうことになるのでしょう?

やすい:やはり近代哲学あるいはソクラテス以降の西洋哲学を主観性の哲学として捉え、その主観の意識は存在から発しているのだから存在から捉えるべきだということらしいですね。存在者というのは意識化された存在であり、存在そのものとは区別されるべきだというのでしょう。ということは結局、意識の背後にある存在ということで、かえって意図していないけれど二元論と誤解されるかもしれません。

佐々木:ハイデッガーは主観性の哲学以前、ソクラテス以前の存在に戻るということですから、意識と物に分かれる前の存在で一元論ですよね。

やすい:人間の意識に対置された存在として身体の立場を持ち出し、存在としての身体の働きとして知覚の立場を打ち出したメルロ・ポンティもハイデッガーに近いところに立っていたとみられているようですね。
佐々木:身体も二元論的に精神に対置されているのではないでしようね。石塚さんは、そういう身体の立場を歴史知的に評価されていますね。

やすい: 反哲学の木田元さんもメルロ・ポンティの反哲学をそういう文脈で解説されていたようですね。つまり物質と精神を二分して精神界のようなものを立てる二元論が哲学であって、それはだめだ。それで身体自身か物質的であると同時に精神的存在だということになります。

佐々木:それはやはりフェティシズム的だということでしょうか?

やすい:そりゃあそうでしょう、未開社会でも精霊信仰があり、アニミズム的傾向がみられるので、初めから物心二元論と思われがちですが、記紀説話などでも木、山、剣、太陽、星などの物が神なのです。そういう自然物に儀礼によってオカルト的な力を生み出しているという構造です。つまり祈る人の儀礼によって物が人にとって存在者(Wesen)として現れ、神の原像であるSacheになるわけですね。

佐々木:つまり人間身体と別に世界があるのではなくて、世界・内・存在としての身体的な行為が世界を形成しているということですか?そうしますと人間身体が特別な重みをもってしまって、身体から脱却して人間の範囲を広げるのは無理なのではないですか?やすいさんのネオヒューマニズムは成り立たなくなってしまいませんか?

やすい:イザナギ・イザナミの夫婦神はまぐあいをしてたくさんの神々を生み、島々を生むわけですが、これは人間の身体的行為と世界生成の関係ですね。イザナギ・イザナミというのは何も神代の話だけではなくて、我々の夫婦の話でもあるわけで、人間の身体的行為と世界生成の関係を象徴しているわけです。もちろんこういう夫婦神信仰は世界中にあります。

佐々木:それはでも夫婦の間の関係ですわね。それが世界を生むというのはどういう連関になるのですか、フェティシズムの場合は、物に対する儀礼的な関係行為ですね。

やすい:まぐあいをするとき生命樹のウッドサークルの中でしますね、そこで生命力が増幅されて神々や島々を生めるということです。つまり我々は宇宙の生命をセックスで吸い込みまして、その力で自然を生み出しているということですね。

佐々木:風を呼び、雨を降らせ、穀物を実らせ、鶏を肥えさせているのですか?そしてこの国土も我々が生んでいるのですか?

やすい:だって生きていりゃこそ御日様も拝めるわけで、世界は我々の命の姿なのです。そして日々の生活が人間環境を再生産しているのですから、その根源的な行為であるまぐあいが特別に神聖な役割を記号的に担っているわけですね。

佐々木:ということは我々が様々な存在者である事物に働きかけて自己実現するときは、まるで女子を抱くように命を込め祈りを込めて行えということですね。そしたら身の回りのすべての事物が光り輝いて見えるだろうということですか。

やすい:ええですから、ド・ブロスは祈りと攻撃という交互の関係行為でフェティシズムを特色づけましたが、それで少々乱暴な印象を与えすぎたかもしれませんね。

佐々木:その意味では、歴史知的に物との関係行為を見直しますと、蛇と石ころを代表とするフェティシズムのイメージからもっと自然全体との身体的行為へと広げられるかもということですか、その際にやはり身体性は不可欠ではないのですか?

やすい:なぜ身体かと言いますと、存在論的転回があったわけで、身体に宿っているとされた実体としての霊魂、精神と身体の二元論を超えようということで、その主体はむしろ身体だという発想で、だから関係行為の主体が身体だから、身体が外せないことになってしまったわけですね。

佐々木:それじゃあ、やすいさんが身体論を超えてというのは、存在論的転回からまた新たな転回なのですか?

やすい:それを言うなら人間論的転回でしょうか?つまり存在論的転回をして、精神を人の身体だけでなく事物にも帰属させたわけでしょう、それも二元論ではなく、そうしますと、事物は人間の非有機的身体だということになります。人間は非有機的身体である諸事物の関係として定義し直されるわけですね。

佐々木:しかし、主体としては身体が感覚し、身体が喜怒哀楽するので特権的な地位は認めるべきではないのですか?

やすい:ええ、認めるべき場合と、非有機的身体に大きなウエイトがあって、意志や感情もむしろそこから生じている場合もあり、ケースバイケースではないかというのが、私の経済哲学とか踏まえた場合の立論なのです。だから〈身体論を超えて〉という発想が出てきたということですね。

佐々木:では石塚さんのいわれる歴史知というのは、やすいさんが事物を人間に含めているような場合を、フェティシズム的に説明しているわけですが、科学知に収まらないような知ですね、ですからやすいさんのいわれるような社会的諸事物も含めて人間というのは、歴史知に含まれるということですね。

やすい:ええ、その積極的な意義を説かれているのですから、石塚さんも私の提唱しているネオヒューマニズムの立場に立っていると言えるでしょう。表現は気に入られないかもしれないけれど。
 

ヒューマン・インターフェイスの歴史知的討究

 投稿者:やすいゆたか  投稿日:2012年 4月 4日(水)20時11分12秒
  佐々木:では人間と道具や機械との関係を歴史知的に討究した論文を検討しましょう。はじめに歴史知とは何かですが、科学知、理論知に対して生活知、経験知などを歴史知と石塚さんは名づけておられますね。

やすい:円は定義すれば「定点から等距離の点の集合」ですね。それが「まんまるの円」なのですが、それは観念的な存在であって、実際には描けません。それに対して我々は生活の中で見出される太陽や月や盆や瞳などを通して円を経験的に知っています。前者を科学知というのに対して、石塚さんは後者を歴史知と名付けているのです。

佐々木:科学知は経験知である歴史知を反省して生じたものですが、いったん科学知が出来上がるとそれが基準になってしまって、科学知にもとづいて経験知が成り立つように転倒されがちだということですね。ただし例外的に天動説は経験知で、地動説は科学知ですが、地動説が公認されても、未だに日常生活や気象などを説明する際は陽が昇るとか沈むとか天動説を使って説明しています。だから確かに地動説が正しいにしても、天動説も現在でも有用なわけですから、時と場合によっては、科学知と矛盾する経験知であっても、それを使った方が様々な事象がうまく説明がつく場合があり、歴史知からも現象を捉え返す必要があるのではないかというのが、「歴史知」の立場ですね。

やすい:石塚さんはフェティシズムを人間の自然や事物に対する関係の取り方として再評価していこうとされる立場ですから、それを科学的でないというので、却下されるのが我慢ならないのでしょうね。

佐々木:それで神々と人とのインターフェイスが取り上げられるのですが、先史古代の神々というのは蛇や石ころを神にしてそれに願を掛け、叶えてくれたらお供えをする、くれなかったら殺したり叩いたりして攻撃するフェティシズムが多いわけです。

やすい:そして伝承の神々たとえば大きな国を作って人民に幸福をもたらしたという大黒様は耳が聞こえない神に作られて、耳を開けてやるから、いい話を聴かせてくれと願をかけられます。禅宗をはじめたダルマ様などは片目の姿で作られ、願いをかけてくれたらもう一つ目を書いてやろうとなります。てるてる坊主などは、明日天気しておくれ、雨だったら首をちょん切るぞと脅かされるのです。

佐々木:大黒様やダルマ様も過去の歴史上、伝説上の人物よりも目の前に作られた像が崇拝の対象つまりフェティッシュになっていると石塚さんはみられているのですね。だから崇拝と攻撃の交互運動が成り立つわけですね。

やすい:もちろんそういう物神にオカルト的な力があるという科学的な根拠はありません。科学知からみれば迷信ですね。でも物神に願をかけて、祈ることで願いが叶えられたらラッキーだし、駄目な時には無憂さ晴らして物神に当たることができます。そのようにしてなんとかサバイバルする合理的方法が他に見いだせないのだから、何かしないと不安と恐怖に耐えられないわけですね。それで物神を作って精神の安定を図ったわけです。それも生き抜く知恵として効果は大きかったということでしょうね。

佐々木:たしかにみんなで信仰して物神に祈ることで精神的な一体化もできて、何も頼るものがないよりは良かったのかもしれません。信じることによる効果は物神から力を得たという受け止め方をするのはあながち間違いとは言えませんから、それも智恵だという見方もできますね。

やすい:それに超越的な絶対神では、見えざる神ですから信仰は絶対帰依でしかありえず、共生的なインターフェイスに成り得ないということです。その代り、超越的な絶対神は全知全能という性格を持ちますので、何でもできる最強の神に成り、それを信仰する方が強いわけですね。唯一絶対神を信仰する方が圧倒的に賢いというのがユダヤ教の立場です。それから見ると神を不具者として扱ったり、神に攻撃を加えるなどの行為は、神に対する最も冒涜的な行為ですから、そういう部族は絶滅させるべきだということになります。

佐々木:でもどちらが健全かというと人間と等身大で、人間に崇拝されたり攻撃されたりするフェティッシュの方が個性も愛敬もあっていいですね。

やすい:鎌鼬という妖怪のせいにして突風で膚が切り裂かれる現象を説明している。突風で膚を切り裂かれる現象は、突風に乗っている鎌を持った鼬妖怪が襲ったと説明することで、一応辻褄があい、襲われないように気を付けたりすることができます。現象を惹き起こす実体が不可解な場合は、妖怪の仕業にしておけば便利なのです。

佐々木:次にピノキオの話がでてきます。木切れの中に霊を宿しているので、木切れは泣いたり笑ったりします。それで操り人形をつくったらできたのが自己意識があって自由に話ができるピノキオです。それがつくったジェベットおじさんとの愛の物語を繰り広げ、最後には仙女に本当の人間の子にしてもらいます。

やすい:たかが棒切れにも魂が宿っていて、人間との間に生かし生かされる関係にあるという寓意だと石塚さんは指摘していますね。だから木切れでも大切にしましょうということです。

佐々木:そこから昨今は環境倫理学で生態系全体として大いなる生命を形成しているのだから、人だけ特権的に扱うべきではないということで、「自然の権利」まで語られるようになっていますね。ピーター・シンガーは痛みを感じる動物にも殺して食べることは、わが身にひきつけて考えたらとてもできないはずで、動物にも生存権を認めるべきだとしています。

人間だけを特別尊いという人間中心主義が生態系を破壊してきたので、動物にも生存権を認めるべきだという立場ですね。こういう傾向からヒューマニズムを人間中心主義として乗り越えようとする脱ヒューマニズムが広がりつつありますね。やすいさんはネオヒューマニズムなので、脱ヒューマニズムには批判的なのでしょう。

やすい:ユクスキュルの『生物から見た世界』によりますと、各生物はそれぞれ固有の環境世界に生きているわけです。ですから人は人の環境世界を生きるしかないわけで、その意味では脱ヒューマニズムという発想は環境世界論と矛盾しています。

佐々木:エコロジーつまり生態系の立場から言いますと、森なら森にいる生物は互いに共生して生きているわけで、その調和が崩れてしまうと大混乱になるわけですね。人は人間中心主義で好き勝手にやってきたから、オゾンホールが大きくなったり、地球全体が温暖化したりして困ったことになっているわけですね。

やすい:その場合も生態系が安定しているかどうかの基準も人の場合は人の環境世界が人のサバイバルにとって安定的かどうかで判断するしかないのです。人中心で勝手なことをしていれば、人の環境世界が破壊されて、自分で自分の首を絞める自己疎外ですよという話です。各生物は自分の種を生きるしかない以上、人間は人間主義を貫徹することによって自然主義を貫徹することになるのです。若きマルクスは〈貫徹された人間主義は貫徹された自然主義であり、貫徹された自然主義は貫徹された人間主義である〉と述べています。

佐々木:特定の個人や集団の利益を守ることが自然の破壊につながるのでそれに反対する場合、その特殊利益は人間全体の利益にも反していることになるので、自然主義と人間主義は相反することはないということですか?

やすい:ええ、そういうことです。極端な場合を想定しましょう。人類の存続を許容すれば、他の動植物が絶滅してしまうので、人類を滅ぼす方が自然全体の利益になる場合です。

佐々木:すると人類を滅ぼすことになりますが、その場合でもヒューマニズムですか?

やすい:もし人類を滅ぼさなかったら他の動植物は絶滅するのですから、人類も滅んでしまいます。人類を滅ぼしても他の動植物は大丈夫なら、また進化によってサルの一種からではなく、別の種類の生物から新しい人間が誕生するはずです。その方が人間にとって利益になるのでヒューマニズムは貫かれるということです。

佐々木:脱ヒューマニズムという発想は、ヒューマニズムを性悪説に立って自己中心的な人間の利益を貫徹しようとする立場だと決めつけているということですか?

やすい:ええ、そうです。我々は人間が何であるかまだよくわかっていないのではないでしょうか?確かに浅ましい醜いところもたくさんあるけれど、人間の素晴らしさ、その可能性とか、まだまだ知らないのです。人間なのだから、人間主義を安易に克服しようなんて言わないで欲しいですね。

佐々木:では自然の権利についてはどう思われますか?

やすい:人間を動物の一種として捉え、そのうえで他の動物にも生存権を認めるべきだというのが環境倫理学者の議論でしょう。もしそうなら誤解がありますね。ヒトという類人猿の一種は、生物学的に動物の一種です。その意味ではヒトも他の動植物も生物的な摂理に従って、生きているわけでその意味で平等です。
ところで人間と他の動植物は生物学的に区別されているわけではないのです。生物学的には平等でも人間学的には平等ではないと言えるかもしれません。つまり権利などは社会的政治的な概念ですから、人格によって担われるものですね。その意味で人格的存在でなければ人格的な権利は担えないという面が出てきます。

佐々木:どうも環境倫理学者は、ドリトル先生の弟子なんでしょうか、人間だけが言語を話すわけではないとか言っているようですね。石塚さんの場合は、また違っていて、歴史知的に森や獣たちにも霊が宿り人格があるとみなして、人格的に尊重し合って自然と共生するというフェティシズム的な生き方に今日的な意義を認めるというようですね。

やすい:これは実に嘆かわしいことですが、言語とは何かという共通認識が成り立っていないので起きている擦れ違いですね。だからある種の信号をやりとりしていたら言語を使っているとみなせば動物言語は成り立つわけです。動物信号と人間言語の違いがまだ定説化していないということが、あきれることですね。人間言語は、事物の客観的な認識に相即しています。主語・述語構造によって、実体・属性を表現しているのが言語です。かくして世界を事物の集合として認識したのが、人間の認識世界の成立です。この上に科学的な知識が積み上げられることが可能になって、文明が成立したわけです。動物信号ではいつまでも文明に至らないということです。客観的な事物認識を積み上げられない限界をもっているからです。
 歴史知的に自然の事物や動植物に霊性を認め、畏敬の念や自然的に支えてくれていることに対する感謝の念を持つことは非常に大切なことで、その意味で自然に権利を付与し、自然の権利を認めることは当然のことでしょう。

佐々木:日本では田上孝一さんが環境倫理学の立場から、ベジタリアンになられて、実践されているのですが、痛みを感じる動物を食用に家畜として飼育し、殺して食べるということは、倫理的に許されないことで、人にされたくないことを人にするなという普遍的な格率を認めるならばやすいさんもベジタリアンになられるべきではないのでしょうか?

やすい:その問題は確かに重大ですね。その点田上さんの実践は重要な意味があります。ただ栄養学的な考察は棚上げにして、他の多くの動植物から命をいただいて、生きるということに人間が大いなる生命の循環と共生を自覚する上で大切なことかもしれない気がします。ただ生きるだけなら栄養素を混ぜたような丸薬を飲み込んでいればいいのでしょうが、それでは余計に自然と断絶してしまいます。

佐々木:私自身も肉食していて、答えられない問ですが、慣習として既にできてしまっている食物連鎖とはいえ、それを倫理的捉え返して、肉食はいけないことだと言えるのかどうかは大変難しい問題ですね。

やすい:すでに取り返しがつかないこととはいえ、仏教やジャイナ教では禁じてきたことですから、悪いことだと自覚したら止めるべきですね。それはさておき、石塚さんは自然に権利を認めるのを「前近代のヒューマン・インターフェイス」に一括され、テルテル坊主やかまいたちなどの歴史知的な感覚と同一視していますが、同次元で語れるか、肉食問題に関しては少なくともベジタリアンの人は納得しないでしょうね。

佐々木:道具から機械への進歩は、人間の代わりに機械が働くことで人間が楽になったわけです。人間の身体能力によって限界づけられていた道具に機械がとって代り、どんな重いものも運べるし、どんな大きな建造物でも建てられるようになったわけですね。生産のスピードも一台の機械が何百人、何千人分の仕事をこなすことになりました。
 ところが実際は、人間は機械の部品に貶められ、単純作業の繰り返しで人間疎外が極端化したわけです。
やすい:しかし単調な単純労働は、機械的な作業ですから、機械が進歩すればオートメ化していくわけです。労働者の労働力を使うか、自動機械に置き換えるかは、コストの問題なのです。

佐々木:それは非人間化の極致ですね。資本制の下では、労働力という可変資本か、機械という不変資本かを選択する基準がコストでしかないということですね。

やすい:結果として労働者は、自動機械だけでは代替できないような技能的な仕事が残り、単純労働は自動機械がするようになるわけですね。そして大部分の労働者は工場内の仕事を失い、サービス産業に流れます。

佐々木:石塚さんは機械やロボットと労働者のヒューマン・インターフェイスについて論じているのですね。ギブソンのアフォーダンス理論を紹介して、最適な道具や機械、環境との距離や関係の取り方を考察されています。それでロボット・フェティシズムということになる。やすいさんの場合は、代替関係について論じています。だからロボットも人間だという捉え方になるわけです。その意味では噛み合っていませんね。

やすい:ええ、噛み合っていないからこそ議論しなければならないということでしょうね。ヒューマン・インターフェイスというのは道具や機械とうまくやれる関係をとるということですね。木切れや石ころや蛇などに霊性があることにして、儀礼によって願いを叶えようとするのがフェティシズムだったわけです。儀礼によって部族の身体に取り込んで、それで部族の霊性がそのフェティシュを通して発現するのです。
現代の機械やロボットとの関係もマン・マシンシステムを形成しているわけですね。労働者が操作し易いに機械がつくられ。労働者も機械に合わせてスキルを積んで、マン・マシンという統一体が作られる。機械は労働者の身体化し、労働者は機械という身体の器官になる。そこで私に言わせれば、マン・マシンシステムが統一体としての新しい人間なのです。
 個人という個体としての人間だけでなく、組織体やマン・マシンシステムなども人間として捉えるべきだというのが私の発想です。

佐々木:石塚さんの問題意識からいうと、マン・マシンシステムというのも資本の原理で作られると、労働者にとって疎外の極致になってしまいがちなわけですね。原始・未開の人々も森の暮らしの中で、動植物や鉱物などとの良好な関係を取り結ぶのに悪戦苦闘していたわけです。それで歴史知的にオカルト的な能力を儀礼によってそれらに付与して、ヒト中心の生態系を作り上げてきたのです。

やすい:それが曲がりなりにも機能している限り、ヒトの環境世界が成り立っているわけですから、その全体を人間として捉え返す視点があってもいいわけです。ビーバーの環境世界全体をビーバーとして理解する視点が必要なのと同じですね。
 マン・マシンシステムもたとえ労働者の個体的身体にとって厳しい疎外を感じざるを得ないとしても、資本の力で統合されて人間の環境世界が出来上がっているので、これを人間として捉え返す視点も必要です。その上で身体的諸個人が極限まで疎外されている原因を解明して、身体的諸個人にとってもマン・マシンシステムが快適になるように変革しなければならないという問題なのです。

佐々木:これまでのヒューマニズムは、資本の支配の下で、機械の部品化された人間を非人間的な物化された人間ということで非人間性をあってはならないこととして告発してきたわけですね、ところがやすいさんの場合は、資本も、資本の下で機械化され物化された人間も非人間的とは見なさない、むしろそれこそ人間的だと見なすということでしょう。それでは共感されないのじゃないですか?

やすい:ええ、だから時間がかかって、万年非常勤講師で極貧生活に耐えてきたわけですね。いわば自業自得です。本質論で人間の本質は労働によって自己実現を果たすことであるということですから、その観点からみれば、働けば働くほど苦しい悲惨な状態に追い詰められていく労働の自己疎外の現実は非人間的だと批判すべきです。私も自己疎外論の復権の旗を振っていますから、現代ヒューマニズムのそういうヒューマニズムには共感しているわけです。
 では資本は人間ではないのか、機械は人間の非有機的身体ではないのかということになりますと、それはやはり機械こそ現代における人間の特色を示しているわけですね。機械を差し引いて人間を語っても、人間とは何かを語れません。二十世紀後半以降の人間を語るのに核兵器や原子力の利用問題を抜きに語れないのと同じです。機械も原子力も人間の外部ではなくて、内部の問題なのです。それをあたかも、人間の外部の機械によって人間が押し潰されているとか、核兵器はそれ自体善悪無記で、核兵器を作ったり、使用したりする人間が恐ろしいという人がいます。核兵器を人間の外部だとして、自己自身として捉え返さないわけです。私は、それでは人間の何たるかは掴めないと思いますね。

佐々木:既成の本質論だったら、人間が人間として成り立つ最低限の要素を人間の本質と見なすわけで、それで言語だとか、思考だとか、労働および社会性などが言われていました。まあ要するにパソコンがなくてもつい最近まで人間でいられたのですから、パソコンは人間ではないと言えます、その論法でいくと核兵器も機械も人間ではないというのは当然の事なんです。でもでは現代の人間を語るのに核兵器抜きに語れないというのも厳然たる事実ですね。

やすい:だから既成の人間論を否定するのではなくて、それだけでは不十分であり、社会的諸事物や環境的自然も含めて包括的に人間を捉えるネオヒューマニズムも必要だというのが、私の主張です。いままで思想やイデオロギーはどれか一つを主体的に選択して、それを命がけで実践すべきだという捉え方が強すぎたのです。二十世紀には、マルクス主義、実存主義、プラグマティズムという三大思想があり、それらは互いに不倶戴天の敵であるかのように対立していました。
 しかし社会の根本的変革を目指すマルクス主義、主体的実存を説く実存主義は元々相補的なものです。だって社会の根本的変革を説くならば、主体的に実存する筈ですし、主体的に実存すれば、社会に対する問いかけも根底的なものになるはずです。
 もちろんそれらとプラグマティズムも相補的ですね。断固として最も有効で効率的な仕方で社会変革を主体的に遂行しなければ、根本的な変革はできっこありません。その意味で方法としてはプラグマティズムを用いるのは当然なのです。
 フランクフルト学派は、道具主義的理性がアウシュビッツ収容所のユダヤ人大虐殺を生み出したと非難しますが、それは道具主義的理性が効率だけを追求して、目的のためなら何をしてもよいとなった時に陥る過ちです。残虐な方法を用いて目的を遂げようとすれば、一時的には成功しても、怨みがのこり、憎しみの連鎖が続きますし、その方法を正当化しようとして、さらに残虐な方法を使うようになり、破綻します。長期的には決して効率的ではないのです。そういう意味では道具主義的理性の正しい使用がアウシュビッツを帰結したとは言えないわけですね。
 それはさておき、人間観でも既成のヒューマニズムの人間観と、ネオヒューマニズムの人間観は、視点の相違であって、現代ヒューマニズムをネオヒューマニズムで克服すると言っても、現代ヒューマニズムだけでは駄目だというだけです。
 機械やロボットをヒューマン・インターフェイスの対象として良好な距離と関係を保って、諸個人が自己実現を図っていくということは、マン・マシンシステムや企業が人間として自己実現していくことでもあるわけです。

佐々木:石塚さんのロボットというのはあくまで今までのロボットについて考察していて、人形フェチの延長としてロボットフェチがあったのが、アイボやアシモやワカマルの登場で、フェチからフェティシュに質的に転化したとされています。

やすい:フェチとフェティシュの違いは興味深いですね。ロボットの場合に、人形みたいに子供の代わりとか、ペットの代わりとして愛好して癒されている段階ではフェチだけれど、何かの代わりではなく、そのロボット自体がかけがえのない愛情の対象となればフェティシュだということですね。

佐々木:やすいさんの『鉄腕アトムは人間か?』の場合は24世紀が舞台になっていて、すでに自己意識あるロボットが人間の覇権に挑戦する事態まで至っているわけです。欲望や意志の主体としてロボットは存在し、運動能力や思考力、情報量の全ての面で既成の人間をはるかに凌駕し、どんどん進歩しているわけですね。そうなればもう完全に人間と認めざるを得ないし、超人の可能性を持っているわけです。

やすい:フェティシズムを自然的事物や道具などを人間が自己の身体化する儀礼とすれば、ロボットもフェチ化された段階で人間の一部として意識されています。だから愛着が強くなって、離れがたくなっているわけですね。フェティシュとなれば、あたかも独立した対象として人格的存在であるかに扱われるわけです。

佐々木:それは主体にとって客体になることなので、別の身体になってしまいますね、人間の非有機的身体ではなくなるということですか?

やすい:人格的存在として見なされるということは、主体の個体的身体には含まれないけれど、人間社会を構成している個体的身体ですから、それ自身人間的性格をもっています。組織体や社会もネオヒューマニズムで言えば、人間ですから、人間の一部になっているわけです。とはいえ、アシモにしてもいろんな反応やふりをするものの、自己意識をもってしているわけではないのですから、独立した人格的主体ではないわけです。

佐々木:私は何度も何度も聴かされているので違和感がなくなっているのですが、やすいさんが人間だという場合に、独立した人格的主体に限定していないわけですね。ボールペンでもボールペンのまま、文房具として書くという人間的行為を構成していれば、それは人間性を発揮している人間体だということですね。学生は納得しますか?

やすい:なかなか納得できない学生も多いですね。学生は倫理学や哲学には、正解がいくつもあって、自分が正解だと考えている答を選べばいいと考えています。ですから私がネオヒューマニズムを説いても、それは自分にとっては正解でないというので、受け入れを拒否するわけですね。
既成の人間観からは納得できないのは当然です。しかし既成の人間観だけでは人間はとらえられないことが理解でき、社会的諸事物や環境的自然も含めた人間観の必要を認めれば、人間とはボールペンにも、ペットにも大都会にも、福島原発事故にも、融解しつつある北極海にも見ることができるということで、大いに納得する学生もどんどん増えつつあることも事実です。

佐々木:石塚さんは、人間身体が遺伝子工学や分子生物学のレベルで考察されることになったことに、身体と魂の二元論の根本的止揚を観ていますね。それとフェティシズムはどう関連するのですか?

やすい:デカルトは人間が自由に言葉を操れるのを非常に不思議に思いまして、機械がいくら発達しても言語を自由に操れるような機械は作れないと考えました。人間の身体と高等動物の身体は、ベサリウスの『ファブリカ』によりますと内臓などの構造は同じなのです。当時は生物体の身体の働きは永久自動機械だと考えられていたのです。これを動物機械論といいます。人も身体的には動物機械だけれど、考える主体として精神的実体である魂が特別に置き入れられていると考えたのです。それは頭のてっぺんにある松葉腺という小さな袋に主に置き入れられていると考えました。
 デカルトは精神的実体は延長的存在ではないと考えましたので、質量や大きさは計れないのです。それが延長的な身体と結びついているので心身二元論というのです。

佐々木:それに対してホッブズは、イギリス経験論の立場から、実験・観察できない精神的実体である魂の存在を前提するのは科学ではないという批判をしたわけですね。デカルトだと考えているのは精神的実体である魂であり、頭脳は考えるための道具に過ぎないわけです。ホッブズは、頭脳の中で薄れゆくメモリィである無数のイマジネーションが動き回っていて関係し合っています。それで魂というのはそのイマジネーションの運動と別に存在するわけではないということです。
 20世紀の科学は、この頭脳の働きを含めて、細胞の仕組みや脳
の仕組みを解明して、物質と別に精神が存在するわけでないことを実証しているわけです。それが身体と魂の二元論の止揚という意味です。

佐々木:フェティシズムの場合も物神とされる事物に聖霊が宿っているとは見なさないということですか?

やすい:そこがポイントですね。蛇や石ころがフェティシュとされることが多いですが、物神となるのは、ド・ブロスによりますと人間の儀礼によってです。儀礼でオカルト的な能力が備わったとされますが、その場合にその事物自体が神としての働きをするのであって、そこに宿った霊が引き起こすのではないのです。むしろ蛇や石ころという事物自体が霊なのです。日本では、古来霊は、〈もの〉とも〈ひ〉とも〈れい〉とも呼ばれたようですが、決して物質と対極をなす精神的実体では元々はなかったわけです。

佐々木:神奈備とか言われますように、日本は神霊が万物に宿って八百万の神々と呼ばれたアニミズムの国ではなかったのですか?

やすい:『古事記』や『日本書紀』の中にどれだけアニミズムの例が出てくるかです。素朴に山や海や川や太陽や北極星や火などを神と仰ぐ自然信仰です。自然の威力を神格化してあらぶる神スサノオ信仰などもありますね。精神的実体としての霊信仰はほとんどみられません。『古事記』には第一まえがき以外に「霊」という漢字は一切使用されていないのです。それで石塚さんもフェティシズムは人間と物との間の儀礼として捉え、そこに物心二元論は認めていないのでしょう。
 

ロボット・フェティシズム

 投稿者:やすいゆたか  投稿日:2012年 4月 4日(水)20時09分8秒
  佐々木:大阪経済大学の「哲学入門」のテキストにするために『長編哲学ミステリー 崩れゆく学園』そして「現代と哲学」のテキストにするために『長編哲学サスペンス 沈みゆく列島』の創作に没入されていて、やっと石塚さんとの対談への準備のためのコメント執筆に戻られたということですね。

やすい:ええ、悪戦苦闘です。倫理学入門のテキストだとファンタジーの内容がそのまま倫理学的なテーマの展開なので、概論的な講義は改めてしていません。哲学関係だと、それをしてしまうと倫理学と科目的な差別化ができなくなってしまうので、やむなく『ソフィーの世界』のように哲学史の部分と物語が交互に出てくる形式にしました。

佐々木:『ソフィーの世界』を論評されたときに物語の展開がそのまま哲学の展開になるようにして欲しかったと言われていたのに、それではゴルデルに降参ですか?

やすい:その突っ込みは、きついですね。今のところは降参しておきます。もう一冊書かないと駄目なのです。というのが、物語にするとすごく膨らんでしまうので、『沈みゆく列島』はマルクス主義、実存主義、プラグマティズムまでしかできなかった。残りの現象学、精神分析、フランクフルト学派、構造主義、ポスト構造主義、環境倫理学、現代正義論などがありますね。ネオヒューマニズムはどの巻にも盛り込まれていますが、それらを物語の展開の中にちりばめたような作品を書こうかと考えています。できれば西田哲学も盛り込んで、それがうまく書けたらゴルデル批判が生きてくるのですが。

佐々木:やすいさんは『鉄腕アトムは人間か?』で展開された自己意識あるロボットも人間だという議論と、石塚さんのロボット・フェティシズムの議論は噛み合っているでしょうか?

やすい:ロボットと人間の断絶を何とかしようと言うところでは噛み合っています。ただ私の場合、ロボットも含めて人間だという〈人間観の転換〉を提起しているわけです。その点、人間が人間以外の事物を聖化するフェティシズムの枠内で石塚さんは論じておられるので、そういう人間観の転換も許容した上でのことなのか検討の余地がありますね。

佐々木:石塚さんは生身の人間同士でのコミュニケーションがうまくできなくなって、いじめに向かったり、電脳空間でのメル友や機械や人型ロボットとのコミュニケーションに癒しを求めたりするという問題を取り上げます。人間嫌いのくせに限りなく人間に近いロボットを求めるということですね。21世紀のヒューマン・インターフェイス典型です。

やすい:石塚さんは生肉身体と機械身体のコラボレーションという表現でコンピュータや機械の身体化、身体の道具化を見据えています。その上で限りなく人間身体に近づいているロボットとのヒューマン・インターフェイスを論じているのです。

佐々木:人間にとって使い勝手のよい機械や道具を作るということだけでなく、人間の身体機能も機械や道具に合わせるという交互関係で捉えていますね。いわゆるメカノイド型人間と呼びますが、その典型を昔ながらの大工や左官、お針子さんと使い慣れた道具や機械の関係に求めています。針供養、などの道具供養を行う関係なのですが、身体と道具が言葉を交わし合うというか、道具も身体化しているということですが、これはやすいさんの言い方では初期マルクスの「非有機的身体としての自然」「人間的自然」として道具や機械が捉えられているということですね。

やすい:ええそういうことでしょう。ただ他方で資本主義体制下での生産物からの疎外は深刻で、科学技術はどんどん発達して生産性は上がっているので、食糧はあまるほど生産され、衣料も全員に行き届くだけはありますし、空き家なんかはたくさんあるわけですね。それなのに社会システムが歪んでいるせいか、失業者があふれ、ホームレスがたくさんいるわけです。食糧は有り余っていても餓死がでるのが実情です。少子高齢化に即した社会保障体制ができていないわけですね。生産のための機械や道具いかに人にやさしく、人も機械や道具を見事に使えても、それで作り出した富におしつぶされているようじゃあなんにもなりませんね。

 

「複合科学的人間論の可能性―歴史知的な立場から考える」について

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 9月 9日(金)21時22分41秒
  佐々木:「はじめに」で石塚さんは「歴史知」について簡潔に説明されています。円の学問的定義は「定点から等距離の点の集合」です。これは科学知であり、理論知なのですが、小学校ではコンパスを使って円を描かせ、それを円だと教えています。でもそれは円ではないのです。点や線は太さがありませんから、描く事はできないわけです。でもコンパスで描いた円だとか、現実に存在する丸いもの、太陽、満月、瞳などを円と認知させます。これを生活知・経験知というわけですが、そういう知を石塚さんは「歴史知」と名付けられています。歴史知から理論知・科学知が出てくるわけです。でもいったん理論知が出来上がりますと、理論知が歴史知の根拠のように見なされる転倒が生じるというのです。

やすい:「定点から等距離の点の集合」が円だから、コンパスを使って円を描くようになったと思われるという事ですね。元々は定点を定めて棒を回したら丸い図形が描けたからなのにということでしょう。

佐々木:天動説から地動説に代わっても、地動説から説かないで、相変わらず陽が昇るとか、陽が沈むというのは例外だとされていますね、やはり毎日の見た目には天動説の方が自然だからでしょう。
やすい:理論知・科学知で捉えなければいけない領域があって、そこでは当然理論知・科学知を用いるのだけれど、それぞれケースバイケースで、生活知、経験知、歴史知を使ったらいいのじゃないかということでしょう。

佐々木:科学知・理論知といっても分野ごとにカテゴリーの適用範囲が変わるでしょう。例えば、医学と生物学と社会学と哲学では、それぞれ「人間」のカテゴリーが違ってくるのじゃないでしようか?

やすい:その意味では、石塚さんが生活知と見なされているのも、服飾学や調理学という学問では立派な理論知であるかもしれませんね。

佐々木:同じ生物学でもどこまでその生物に含めるかは議論が分かれるでしょう。普通貝は貝殻を含めて貝と見なされますが、貝殻は排泄された炭酸カルシウムが蓄積されてできた貝の服装とも住居とも見なせるものです。細胞から構成されていないと身体ではないとすると、貝殻を除いた身の部分だけが貝だということになり、まったく貝らしくなくなります。

やすい:それと同じ理窟で、「人間」のカテゴリーはジャンルによって多様になっています。医学的には主に身体に限定して人間を捉える事になりますが、同じ医学でも家族や社会の病理を解明しなければ、展開できないような精神医学という領域もあります。

佐々木:経済学では生産・流通・消費のシステムやそこで流通する商品、生産財や工場やオフィス、道路なども含めて人間の経済関係が出来上がっているのですから、それらが人間の経済的要素として機能できないと人間社会が成り立ちません。それを商品が価値を持って価値関係を取り結ぶのはフェティシズム的倒錯だというマルクスの議論は、人間を身体に限定する人間観への固執だというのがやすいさんのマルクス批判ですね。

やすい:ええ、石塚さんは、そのように人間的関係の中でザッヘとしてフェティシュになった商品を現代のフェティシズムとして捉え返します。

佐々木:それならマルクスの議論とどう違うのですか?

やすい:マルクスは人と人の社会関係が倒錯的に商品の属性となって捉えられているとするわけです。私は資本制社会では商品として生産され、流通しているのだから、そういう社会属性を商品がもつのは、商品も含めて人間だと捉えれば、倒錯ではないという立場です。それに対して石塚さんは、商品取引という儀礼によって生産物がザッヘとして物神となっているという捉え方のようですね。

佐々木:それは微妙というか、考えようによっては重大な差異があるようですね。そこを突っ込みますと前に進めないので、話を戻して、科学知と歴史知の対比で人間観の変遷を整理する作業に入りましょう。

やすい:カッシーラーは、人間を理性的動物(animal rationale)と象徴的動物(animale symbolicum)に分類して、理性的に行動する人間像より、シンボルを使ったり、シンボル操作されやすい人間像を選択したのです。巨大な管理機構により、管理操作される大衆社会に相応しい人間観ですね。
佐々木:それに対して石塚さんは、そのどちらも歴史知の対極だとします。人間は感性的で具象的な存在だとします。感性として存在し、生の具体的な対象を求めるからこそ、それを連想させるシンボルに惹きつけられるということですね。でもカッシーラーが言いたいのは、シンボル操作をすることによって人間になったということで、何も感性的で具象的なものをもとめないということではないでしょう。感性的で具象的な存在だったら動物一般だって当てはまるわけですから。

やすい:それはそうですね。ただ石塚さんが言いたいのは、理性やシンボルを生み、理性やシンボルに支配されるのは、人間が具体的な意識経験の主体として身体的存在であるからだということでしょう。だからシンボルや理性で形成されたものが身体の欲望を充足できなくなれば、それらを拒否して、あらたなシンボルや理性を生むことになり、これは交互運動であって、フェティシズムなのだという捉え方です。

     1ピュタゴラスとセネカ

佐々木:科学知・理論知の先駆者として、元祖数学者というべきピュタゴラスが登場します。アルケー(原理)は数だとした人ですね。
1が宇宙の根源だという説です。すべて物質は数的比つまり調和(ハルモニア)からできあがっており、数量に還元して調和を実現する事で、充実した幸福な人生が送れると考えていたようです。

やすい:魂の輪廻転生という発想をギリシアに持ち込んだのはピュタゴラスだったとギリシア哲学の研究者日下部吉信さんから教わりましたが、物心二元論や形而上学の元祖みたいに捉えられていて、西洋の形而上学を越えて存在に還るにはピュタゴラス以前に戻らなくてはならないというのが、彼の『ギリシア哲学と主観性』という著書の主旨です。ともかく霊魂(プシュケー)を肉体に対置させて、そちらにアイデンティティを求めたのがピュタゴラスということになっています。

佐々木:それに対して欲求や情念や愛などは数量化できないけれど、こちらの方が人間に根源的ではないかということで、生活知・経験知すなわち歴史知に根ざす考え方の代表格に石塚さんはストア派の一人であるセネカを取り上げています。ずいぶんピュタゴラスとは時代を隔てていますね。

やすい:何故セネカなのか、この文章だけからは良く分かりませんが、それぞれ人は自分に与えられた生活環境の中で生きていて、その中で自らの運命を享受するようになっている。そのことでは神々も変わらない、ということで、単に既成の理論知をそのまま受け入れるのではなく、感性に基礎づけられた思惟、感性を備えた思惟によつて捉えられたものとして自然を理解していますね。

佐々木:ようするにピュタゴラスやプラトンだと霊魂は肉体から抜け出て、理想のイデア界に戻るわけですが、セネカは現実の国家が理想からかけ離れているからといって、自然から離れるわけにはいかない、現に身体が属している時代に身体の感性に現われる自然を享受して、その「自然に合致して生きるべし」ということでしょう。要するに現実をたくましく生きるべきだということです。

やすい:なるほど、そうですか、石塚さんの狙いは、おそらくローマ帝国が理論知でいう理想国家でなくなっていて、現に展開するドロドロとした権力闘争、利権争いの中で、己の才智を発揮しながら、自分の地歩を固めつつ、理想を追求する形にならざるをえないので、理論知・科学知を建前にしながらも、大いに生活知・経験知すなわち歴史知を活用したのではないかということでしょうか。セネカは皇帝ネロの師として参謀として波乱万丈の人生を送り、最後はネロを失脚させようとした嫌疑をかけられ自殺に追い詰められたわけですから。
 

2.感覚的人間観:人間観の変遷と諸類型(1)

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 9月 9日(金)21時20分35秒
  佐々木:?以降は近代ヨーロッパの人間観の変遷を時代順に追う形をとっています。最初に登場するのが人間の本性は欲求や情念にあるとする感覚的人間観で、マキャヴェッリとホッブズを取り上げています。

やすい:マキャヴェッリといえば『君主論』で有名です。君主は国家を富強にするためには、君主権を強大にし、宗教や道徳から独立して、力の論理で権謀術数を使ってなんでも行うべきだという考え方を説きました。その意味で政治を科学として自立させた人物として高く評価されています。

佐々木:ただ強大な君主権力を求めたのはイタリアを統一して強大にするために必要と考えたからで、古代ローマについては共和政の方が帝政よりいいと捉えていたようですね。

やすい:マキャヴェッリは君主は「ライオンのような獰猛さと、狐のような狡知」を持たなければならないと言います。つまり君主は主権者として、旺盛な領土欲を持ち、それを実現するために獰猛で恐れられるようにならなければならず、騙されないでうまく操縦するためにはずるがしこくなければならないというのです。

佐々木:要するに歴史的条件を踏まえて、その中で最大に自己の欲望を実現しようとするところに人間の本性があるということですね。あまり欲のない人間は、人間として存在感が希薄だということでしょうか。

やすい:やはり行動的な人は欲が強いですよね。そうでないと大きな仕事はできないので、欲が強いというのは、人間として必要な性格でしょう。十七世紀のホッブズも人間を欲望中心に捉えていますね。

佐々木:ホッブズの人間論は、人間は欲望によって動く自動機械だということでしょう。その場合に、欲望の面にばかり注目していては物足りないので、自動機械だという面も重要でしょう。

やすい:ええ、さらに人間身体が欲望機械だということを基礎にして、諸個人が巨大な人工機械人間である国家の部品になるという捉え方に最大の特色があるわけです。その場合に、欲望が本性だということが、国家を人工機械人間として捉える基礎になるので、欲望本性論も科学知に含まれることになってしまうような気がしますね。理性だったら理論知で、欲望だったら歴史知という分類ですむかどうか、微妙ですね。まあこちらの「歴史知」理解が浅いからかもしれませんが。
 

3.理性的人間観:人間観の変遷と諸類型?

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 9月 9日(金)21時18分36秒
  佐々木:ホッブズとロックは、社会契約説を説いたことは共通しているのですが、狙いは逆なのですね。ホッブズは革命を否定するために社会契約説の土俵に入って、社会契約説から見ても革命はいけないということを説得しているわけです。ところがロックは名誉革命の指導者の一人ですから、国家は市民が自然権を守ってもらうために造ったのだから、国家が悪政を行なって、市民の自然権が危うくなったら、主権者との社会契約を解除して、新しく社会契約をやり直してもいいという立場です。

やすい:ええ、実はロックの方が社会契約説の本来の姿なのです。だって国家は独立した諸個人が社会契約によってつくったのだから、自分たちの自然権が脅かされれば、そういう国家はいったん解体して社会契約をやり直し、自由を取り戻して当然というのが、近代的な個人の立場に立った社会契約説ですから、それをホッブズは国家も生きた人工機械人間だということにして、国家の死は元の万人の万人に対する戦争状態への逆戻りだと革命否定論に作り変えたわけです。

佐々木:その議論は、自然状態が戦争状態だという事を前提しています。それは人間本性が欲望だからという理窟ですね。だからそれに反論するためには、人間は自然状態でも理性的だったという形で理性的人間論を展開する必要がロックにはあったわけですね。

やすい:人間は理性的であるということなら、国家権力は強権である必要はなく、自然権の一部を信託するだけでいいですし、国家が強権化して市民の自然権が著しく蹂躪されれば当然革命してもよいことになります。ロックは人間の理性が優れていることを『人間悟性論』で展開していますが、視覚には一枚ずつのフィルムみたいな画像が見えているわけですが、悟性の力でそれをつなげて運動を知覚しているというような議論になっています。

佐々木:次に18世紀のフランス啓蒙思想を取り上げています。モンテスキューの『法の精神』では理性こそ世界を支配する根源的な法則であり、歴史はこの普遍法則の現われだとしています。

やすい:そして啓蒙思想家の代表としてヴォルテールを取り上げ、世界史は理性が進歩し完成する過程だとしています。個人の言動や仕事はその観点から意義付けられ、理性の現われとして意義を持つという事ですね。

佐々木:18世紀の啓蒙思想は、理性の光で迷蒙が啓かれるということでしょう。それまでは欲望のおもむくままに衝動に身を任せるしかないわけで、それを教会や権力が迷信や暴力で抑えつけるという構図だった。それが理性によって自分の知的判断に基づいて、合理的に納得いけるものを選んで行動できるわけで、それこそ畜生ではない、人間の本来の姿だということですね。

やすい:知性の発達によって、欲望のコントロールが出来るようになる反面、知の増殖により、欲望の内容が豊富化し、欲望が肥大化するということもあるわけです。ですからますます人間の本性は欲望だという見解も説得力を持ちます。そしてそれではいけないということで、理性によるコントロールや解放が人間性ということにもなるわけですね。

佐々木:その意味で、ただ認識能力が発展するだけでは文明による疎外に苦しめられるだけなので、欲望を自制し、正しい方向に向ける道徳を重視しなければならないという立場が出てきます。そこでドイツ観念論が登場します。カントは「これは何であるか」を知る理性、これを理論理性とか純粋理性とか呼ぶわけですが、それには限界があるとしました。そして「何をなすべきか」あるいは「何をなすべきでないか」を考える実践理性を想定しまして、この実践理性の命令に従って、傾向性を抑制して義務に従う道徳性が、人間として大切だというのです。

やすい:石塚さんによりますと、純粋理性と実践理性を理論知と歴史知の観点から見直されようとするのですが、カントの純粋理性は、意識経験の世界である現象界の経験からでて来るわけで、実践理性の命令は、内心の良心のようなものから発します。ですから実践理性の命令の方が歴史知だというのは無理があるような気がします。もっと具体的にいろんな例を挙げて説明してくださらないと、説得力がでません。無理にここで適用されると、歴史知というもののイメージがつかめなくなります。
 

4.実存的人間観:人間観の変遷と諸類型(3)

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 9月 9日(金)21時16分4秒
  佐々木:さて19世紀は人間や民族の個性が見出されまして、個性の展開として歴史は一回性を持ち、循環したり、普遍的な発展法則に則って展開するものではないとする歴史主義の歴史観が主流になりました。そこで自己の実存的主体性にこそ生きることの意味や真理が見出されるとする実存的人間観が登場しました。

やすい:その筆頭がキルケゴールです。神の御前に立つ単独者の宗教的実存を求めたわけですね。

佐々木:ところでキルケゴール自身は宗教的実存によって、救われたのでしょうか。それとも絶望したままもがき苦しんでいる状態で死んだのでしょうか。

やすい:それは大変深い問ですね。キルケゴールは臨終にあたって、牧師から聖餐を受けることを拒んでいます。これは聖餐の否定というよりも、当時のキリスト教会との対決ということでしょう。それで安らかに神に祈れるのかと問われたわけです。キルケゴールはこう答えたそうです。「うん、できる。僕は先ず罪の赦しを祈る。すべてが赦されることを祈る。それから、死に臨んで僕が絶望から解放させてもらえるように、それから、これこそ知りたい事だが、死がいつくるかをくる少し前に知らせてもらえるように祈る」

佐々木:絶望というのは神から離れていることだとキルケゴールは言ってますから、それは不信仰の気持があるということですね。でも『死に至る病』の筆致は、すごく深く信仰しているようにみえますが。

やすい:実は『死に至る病』の著者はアンチ・クリマクスなのです。ヨハネス・クリマクスという筆名でキルケゴールは本を書いていまして、絶望に苦しむ実存的主体の立場で書いていたわけですが、『死に至る病』はそれをキリスト者の立場から批判して書いているのです。HP『思想の世界』の主幹者である小副川幸孝さんのサイトから引用します。

 「彼は、日記の中で、「(ヨハネス)クリマクスは私よりも低い。自分がキリスト者であることを否定している。アンチ・クリマクスは、私よりも高い。彼は異常なまでもキリスト者である」と書いている。そして、人間が「天と地の中間のもの」であるが故に生まれてくる精神の気分、これが「絶望」である。
 夢破れ、希望が失われても、なおそれを望まざるを得ないが故の絶望。キルケゴールはこの絶望を見つめ続けるのである。」
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/index.html

佐々木:なるほどということは神を信じきれないけれど神を求めざるをえない、その絶望にもがき苦しむところに現代人の信仰が成り立つということですか。

やすい:もがき苦しんでばかりいられませんので、「単独者でなく、〈我と汝〉を基本とする類的存在としての人間を讃えた。」のがフォイエルバッハだということです。

佐々木:神が愛なのではなく、愛が神だということですね。他の人格の中にもう一人の自己を見出して、その類的関係の中で個人では到底実現できない普遍的な人間性を実現する事ができます。また自然対象との関係でも、自然の中の一部であり、自然を自己の身体化してこそ類的に存在できるわけで、自然もその関係の中で単なる物(ディング)ではなくザッヘとなるわけですね。ザッヘはすでにフェティシュなんだと石塚さんは解釈されています。フォイエルバッハ自身がザッヘはフェティシュだと明言しているのかどうか、関連箇所の引用があればいいですね。

やすい:超越的な神を求めるから絶望せざるをえないので、人々とのつながりや自然や社会の所持物とのつながりにこそ大切なものを見つければ、それは生活知・経験知つまり歴史知じゃないかということですね。それは絶望なんかしていられないですね。

佐々木:ただフォイエルバッハは青年ヘーゲル派には大きな影響を与えたものの、世間的には広がりません。それとは別にニーチェは「神は死んだ、人間が神を殺しのだ」ということで、天上の神を信じきれないのなら、大地に忠実に生きればよいと無神論的実存主義を打ち出したわけですね。

やすい:ニーチェは、神に象徴化されている普遍妥当的価値の崩壊を意味させているのです。それで既成の価値に囚われずに、あらゆる価値を転換して、それぞれが「新しい価値の表」を作って、その実現を目指す能動的ニヒリズムを提唱したのです。

佐々木:それぞれが己の限界、人間としての限界を突き破って超人を目指さないと、人間は既に動物の頂上を極めているので、ベクトルが下を向いている。超人を目指し人間の限界を超えようとすれば没落の危険が大きいが、あえて没落を目指すような気持がなければ、「猿よりはまだ猿」「蛆虫よりまだ蛆虫」というわけです。

やすい:石塚さんの歴史知で言えば、西洋数千年の二元論や形而上学を端的にのりこえ、大地の経験から大地自身の意義に目覚める事を説いていますから、経験知・歴史知ということでしょうが、末人批判では、快苦の原理によるイギリス功利主義を真っ向から批判しています。

佐々木:いわゆる「蚤の幸福」を求めず、没落を恐れずに人間の限界に挑戦せよということですね。功利主義も超人主義も歴史知となると、石塚さんのスタンスが問い直されるところですね。

やすい:次に二十世紀の実存主義では、限界状況から逃げないで真摯に立ち向かうヤスパースと、死への先駆的決意性によって歴史的運命を引き受けるハイデッガーですが、両者を飛ばしてサルトルにいっています。まあ両者とも死を見据える事で、生の現実と真摯に格闘して生きるという意味では、理念や科学に依拠するのではないということで、歴史知を重視していると言えるでしょう。

佐々木:そういう発想に立てば、実存主義も経験主義の文学的形態といえるかもしれませんね。死を通して生が照らし出され、存在が輝くということですから。

やすい:実存Existenzとは語源的に「出て行くこと」であり、自己を脱出して存在の明るみに立つということらしいですね。ようするにエクスタシー、脱自状態ということなのです。つまり死を先駆的に決意して歴史的運命に身を投げ出せば我を忘れて、存在の光に照らされ絶頂感を感じるということなのかもしれません。官能的ですね。

佐々木:ハイデッガーの場合は官能的な面もあったかもしれませんね。当時の右翼的な風潮の中ではある種熱に浮かされたような忘我状態にドイツ民族が陥っていたとも考えられますから。それに対してサルトルの脱自は、状況を自己の実存として受け止め、そこにアンガージュマン(投企)することで、自己否定的に状況を変革するわけですから、脱自は、状況脱出=状況変革=自己変革という意味が強かったのではないでしょうか。そこに官能的なものへの渇きみたいなものがあったとしたら、ちょっとサルトルのイメージは悪くなりますね、私的には。
 

5.実践的人間観:人間観の変遷と諸類型(4)

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 9月 9日(金)21時12分28秒
  やすい:次にマルクスの人間観を論じているわけですが、それも『フォイエルバッハ・テーゼ』に限定して論じられているので、いささか物足りないですね。

佐々木:しかも第三テーゼから論じています。やはり第一テーゼが最も重要でしょう。「対象を実践として主体的に捉え返すべし」という主旨ですから、対象を含めて人間を捉え返すということで、人間観の転換が見られます。

やすい:実践的人間観ということで、第三テーゼに触れられたのは、経済的土台が意識を決定するという経済決定論のような俗流的理解に対抗されているからなのですが、もう二十一世紀なのですから、ソ連流官許マルクス主義に対する批判に気をとられすぎると肝心の問題を見逃す事にならないかと思います。
やはり第一テーゼが決定的に重要でしょう。実践を中心に人間を捉えるのは知る事と行なうことを一体的に捉えていたソクラテスや中国の孔孟などの儒家も含まれます。しかし対象(=事物)を自己の実践として捉えるとなるとやはり、この第一テーゼは凄いですね。これには西田幾多郎もびっくりです。

佐々木:第三テーゼは、三木清が「ネオヒューマニズム」を提唱したさいの、人間観に大きく影響したようですね。環境と主体の交互作用を重視して、環境によって作りかえられた人間が、環境をさらに作り変えて、その環境によって新たな人間に作り変えられるというイメージです。
やすい:ええ、ただ人間は経済的土台や環境に規定されるだけではなく、土台や環境を実践の契機にして、土台や環境と自己自身を作り変えていく主体として捉え返されている「新しい人間」です。

佐々木:三木では、人間界を構成する諸事物は「交渉的存在」として捉え返されますね。やすいさんの「ネオヒューマニズム」だとそれらも人間に含まれる事になるわけですが、石塚さんのフォイエルバツハ解釈だと、それらは単なるディングではなく、ザッヘになるつまりフェティシュになるということでしょうか。

やすい:結局フェティシュということは、事物なのに人間として社会関係を取り結ぶという事ですね。だから石塚さんの捉え方でも事物は人間と見なされているということです。私の言い方だと事物も人間に含まれるという事ですからニュアンスは違いますが。

佐々木:それで第六テーゼの解釈をからませましょう。「人間性(das menschliche Wesen)は諸個人(das einzelne Individuum)に内在する抽象概念ではけっしてない。現実においてそれは、社会的諸関係の総体(das Ensembles der gesellschaftlichen Verhaeltnisse)である」。とすると石塚さんによれば、人間と環境は区別されておらず、突っ込みで社会的諸関係の結節点が個人であり、諸関係のアンサンブルが個人だというパラダイムはきわめて現代的だとされています。

やすい:人間の本質規定は、さまざまになされ得るわけです。思考・言語・労働・道具使用・シンボル操作・遊戯・社会的動物等等どれもそれによって人間の特色を表せるのは本質なわけです。ただその本質を人間の抽象的な理念と考えて、それで諸個人をその本質を備えているかどうかで理念的に捉えようとすると、現実を理念で裁断するようなことになってしまいます。啓蒙思想や唯物論にはそういう偏向があったということでしょう。それで現実的にはどんな社会的諸関係を取り結んでいるかによって、それぞれの諸個人が構成されていることを指摘しているわけですね。ですからここで社会的諸関係のアンサンブルだと言明した事をもって、人間の本質が言語や労働などの抽象的な規定ではないとしたわけではないのです。

佐々木:それはdas menschliche Wesenを「人間の本質」と訳すか、「人間性」と訳すかとも関係しますね。「人間性」なら人間性は諸個人に内属する抽象的な存在ではなく、具体的であって、それぞれの諸個人が取り結ぶ社会的諸関係の総和として現れるのだと解釈するのが自然です。ところが「人間の本質」なら言語や労働などで動物一般と区別できますから、言語や労働を人間の本質でないみたいにマルクスも考えている筈はないだろうという事になりますね。

やすい:たしかに微妙ですね。ただ私はアンサンブル規定によって、マルクスは人間の本質が労働であるという捉え方を否定したみたいな解釈をする人がいるので、そりゃあ飛躍しすぎだと思うわけです。高校生の頃は、観念論者は人間の本質は思考だといい、唯物論者は人間の本質は労働だというのだと教える活動家がいて、真理は一つで二者択一しなければいけないみたいに思い込まされたものですが、とんでもない話で、労働が本質だといったら.思考が人間の本質でなくなるはずはありません。それと同じですね。

佐々木:やはり実践的人間観としてプラグマティズムがとりあげられています。主にデューイの道具主義的理性観で代表させていますね。
やすい:デューイは『哲学の改造』で知識・概念・理論は問題解決のための仮説であり、道具であると捉えたのです。知識・概念・理論が妥当で価値があるかどうかは、道具としての有用性にあるのだと説いたのです。そこで彼のこの立場を道具主義と言います。

佐々木:その知識・概念・理論がいわゆる人間理性とすれば、それを抽象的ではなくて、実際の産業社会での有用性だといことで、歴史知的に捉えているわけですね。

やすい:もちろん知識・概念・理論などは抽象的ですが、それ自体が目的ではなくて、経験における有用性として具体的に効果が問題なんだということで、歴史知的に捉えておられるわけです。

佐々木:パースは「人間記号論」という独特の人間論を説いていますし、ジェームズは根本的経験論つまり経験論を徹底して「純粋経験論」に到達しています。両者は意識経験の流れを人間として捉えている点で共通しているのだけれど激しく対立していたようですね。

やすい:パースは人間を思考の連続として捉えました。思考は記号であり、事物が他の事物を指し示す事物の知的性質であるとしたのです。それで「人間=記号」論が帰結されます。それで人間は単に身体やそこにやどる人格に限定されないで、事物の在り方として捉え返されていますから、人間観のコペルニクス的転換がなされているというのが、私の評価です。

佐々木:それなら人間は思考なので、その思考が事物だということになり、客観的実在との一致が真理だという「科学の方法」と矛盾しませんか?

やすい:だからパースは「思惟と存在の同一」を説いたドイツ観念論を高く評価しています。事物は意識経験としては思考に他ならないわけですね。ただそれが同時に客観的実在としては神の被造物なのです。

佐々木:意識によって構成されて成立する事物が同時に神の被造物としての客観的実在でもあるというのは支離滅裂ではないですか。

やすい:私の解釈では、人間の意識は、では何よって生じるのかということですね。対象である木を構成している意識は、対象である木が主体に働きかけて木の意識を生み出しているとも言えるのではないかということです。たしかに木の意識は意識が構成しているにしても、木という客観的実在がなければ木の意識が生じないのもまた真理ではないかということです。彼は万物の創造主である神を信じていたので、事物を含めて思考が生じると考え、事物の知的性質が人間としての記号だとしたのです。

佐々木:たしかにパースがジェームズの純粋経験論にあくまで反対して、科学の方法に固執していたのは、客観的実在としての事物を信仰していたからと言えるかもしれませんね。それに対してジェームズの純粋経験論では、客観的実在としての事物は、純粋経験を反省した機能的概念だとしていますから、事物は意識に還元されてしまって、思考のみが存在するという事になるのですか。

やすい:つまり、ややこしいですが木という事物は主観に即しては、意識が構成するのですが、それはノエマですね、ノエマである木を主観が構成できるのは、客観的実在である木を神が創造されているからで、ノエマとしての木と事物としての木が一致するのは、ノエマとしての木と一致しない事物としての木を創造してもプラグマティックに考えて、無駄なだけですね。神はプラグマティストであり全能でもあるとすると、神はノエマを事物に合致できるような事物を創造しているはずだということになります。

 次にジェームズの場合は純粋経験の連続が実在ですから、構成説だけでいいわけです。客観的事物は意識の構成物ですからノエマですが、それが実在だということは、事物は生々しいリアルな意識であるということです。意識化することがバーチャルだとしますと、生の意識として現われている事物で世界が構成されているということです。だから意識に還元されたので、事物は観念化し、思考しかなくなったというのとは逆ですね。むしろバーチャルの背後にリアルがあると考える方が、観念論なのです。

佐々木:英語でバーチャルというとHe is a virtual manager. 「彼は事実上の支配人だ。」 (「仮の支配人だ」ではない) in virtual 「実質的には」。(「仮想的に」ではない)
というように言われるようですが、ニュアンス的にはそういうことですね。
 

6.仮想的人間観:人間観の変遷と諸類型(5)

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 9月 9日(金)21時08分51秒
  やすい:バーチャルの話がでたところで次に移りましょう。先ほど「意識化することがバーチャルだとしますと」と言ったところですが、元々語源的には「徳のある」とか「力のある」という意味だったようですね。そこから実質的という意味になったようです。ウィキペディアによりますと、「バーチャルリアリティとは、実際の形はしていないか、形は異なるかも知れないが、機能としての本質は同じであるような環境を、ユーザの感覚を刺激することにより理工学的に作り出す技術およびその体系」なのです。ですから、感覚的には全くリアルと思い込まれるけれど、全く仮想にすぎない視覚像という意味ではないということで、一種の和製英語になってしまっているということらしいですね。

佐々木:ようするにバーチャルには仮想的という意味はなかったということですね。でもバーチャルがリアルの対義語になってしまっているし、その意味でのバーチャルが大問題になっているので、いまさらけちをつけても仕方ないでしょう。

やすい:まあそうですね。ただ私が言いたいのは、感覚器官とか感覚を呼び起こす機器で構成された像をバーチャルとしますと、ジェームズの純粋経験が実在だといういう見地に立てば、バーチャルがリアルだということになってしまい、実質的という英語的な意味でいいことになりますね。

佐々木:でも日本で言われているバーチャルリアリティは、あたかもリアルと思わせる人工的視覚像のことですよ。

やすい:フッサールの場合でも構成された視覚像はノエマであって、意識現象にすぎないのだが、自然的態度では本質直観として了解されているということですから。これこそバーチャルリアリティですね。それが純粋経験であって実在だというジェームズの立場だと、バーチャルリアリティに対置されるリアルはなくなります。かえってバーチャルリアリティこそ生々しい現実だという議論になっているわけです。

佐々木:やすいさんは感覚器官が構成した視覚像だけでなく、人工の模擬映像もリアルだというわけですか。

やすい:リアル度というものは相対的なものですね。ドラマで現実を再構成した映画がありますと、フィクションだけどリアル度はあるわけです。生に肉眼で見ていてる現実は、いかにリアルであっても視力や環境次第ではぼやけてリアルに見えてこないわけですね。日食を直接肉眼で観察するのと、テレビ映像で観察するのとではどちらがよりリアルなのかということです。つい固定観念から現場主義、肉眼主義を強調する人もいますが、それは強がりであって、実際は機器を含めた身体でよりリアルに見ているわけでしょう。

佐々木:そうすると岸田秀の唯幻論みたいになってしまいませんか。

やすい:だから、岸田秀の唯幻論は唯実論の裏返しに過ぎないという事です。ほんとに幻想でしかないのなら、やっていけませんからね。人間の個人と類が保存でき、文明が更新できている分だけはリアルに認識できていることは否定出来ない筈です。

佐々木:石塚さんはマルクスの人間の本性を「社会的諸関係のアンサンブル」と捉える見方をバーチャルな見方だと評されているようですね。家庭に於ける父親、通勤電車の中での乗客、会社での従業員、WEB上ではホームページやMIXIのコミュニティの管理人等の役割を扮技しているのですが、どれも関係によって生じる仮想的な自分にすぎません。それらの関係における自分を一つ一つ差し引いて、その上で残る素の自分、本来の自分は残るだろうか、そこに残る素の自分こそ仮想的な存在ではないのかということです。

やすい:また石塚さんは最近の情報革命にふれて自動機器や情報機器によって人と機械の関係、機械を媒介にした人と人の関係などで形成されている人間性も仮想的だとみられていますね。つまりそういう機械や道具によらない素の人間と自然、人間と人間をリアルとすれば、そういう仮想された人間性に生きざるを得なくなっているという捉え方です。

佐々木:つまり本来の自然人として人と人の関係や人と自然のリアルな関係が、マン・マシーンシステムや電脳空間によってもたらされるバーチャルの関係に覆われて、とって変わられ人間自身がバーチャル的な存在になって来ているという事ですね。

やすい:その起源を家族に求めているようですね、元々の氏族というのは自然的な存在だったわけです。それが他氏族の全くの他人でしかない男女が最も親(ちか)しい関係だと仮想することで成り立った関係が家族だというわけです。「氏族は事実・現実的に存在するが、家族は仮想・擬制的に存在する」というのです。

佐々木:だから家族を維持するためには、その仮想や擬制を自然と思い込むような儀礼と観念が必要なわけですね。それが現在崩壊しつつあるということでしょう。「不倫は文化だ」と言い放つばかりか、育児を放棄したり、家族のために働くという気力もなくなっている人が増えてきていて社会問題化しつつあるわけです。次第に家族が仮想・擬制にすぎなかったことは暴露されつつあるという事です。

やすい:そういう危機が露呈しつつあるとはいえ、その関係は現実を構成していて、それでリアルに生きているわけですね。その関係は頭の中にだけあるのではなくて、社会を構成しているのです。だからバーチャルこそ生々しい現実だということになります。それこそ実質的なわけですね。その実質としてのバーチャルを成り立たせる儀礼として家族のしきたりを守るとか、夫婦の営みとか、親子の挨拶から養育・扶養のパフォーマンスを演じる事が大切なのです。それができなくなったら、家族関係が崩壊してしまう。これらはフェティシズムの特色を示しているということでしょう。だから幻想的現実としてのバーチャルよりも、実質的関係としてのバーチャル理解に石塚さんの場合に近いのじゃないかというのが、私が、バーチャルの元の意味を参考にした所以なのです。
 

7.共生的人間観:人間観の変遷と諸類型(6)

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 9月 9日(金)21時06分47秒
  佐々木:つぎの共生的人間観では、家族がバーチャルだというのをうけて市民社会について論じていますね、「家族が解体した後に一体何が残るか」と問いかけた上で、「個人を単位にする社会組織」として「市民社会」を俎上にあげて、類別しています。

やすい:まずアリストテレスの「ポリティケ・コイノイア」という国家と同じような意味の言葉です。これを奴隷を支配する市民たちの社会と捉えているようです。アテネの民主政治は、奴隷制に経済的に頼っていたことはあったでしょうが、奴隷制度が発達する事を恐れていました。というのは奴隷の増加は戦争が原因でなければ、債務奴隷つまり借金が返せなくて、奴隷に落とされる場合です。そうしますと、市民が減って奴隷が増えることになり、民主制が衰退してしまうのです。

佐々木:アテネが隆盛を誇ったのは、兵役義務がある市民の数を維持できたからですね。奴隷が増えるとアテネのために命懸けで戦う人々が減ってしまうということでしょう。

やすい:スパルタの場合は奴隷の数が圧倒的で市民の十倍ぐらいいた、奴隷の叛乱を抑えるために、市民は軍事中心の軍団的な組織にならざるを得ないので、民主制は守れません。アテネは人口の三分の一に当たる11万人が奴隷だったようです。果たして奴隷労働だけで暮していけたのか、やはり一般庶民は生業についていたでしょう。

佐々木:アテネは奴隷制の面より、民主制の面が強かったということですか。少なくとも奴隷支配のための市民社会という捉え方は一面的すぎるという事でしょうか。

やすい:まあ奴隷制の発達は重要ですが、ギリシアのポリス自体は奴隷支配のために出来たわけではないでしょう。独立した市民が外敵や獣から身を守るために、城壁を作ってその中に集住し、いろんな政治体制の協同組織をつくったということではないでしょうか。

佐々木:では次にロックのシビル・ソサエティはどうですか、社会契約説に基づいて、独立した自由な諸個人がつくる政治社会ということですね。

やすい:ロックの場合、社会契約をする独立した自由な諸個人というのは、人民全体を指しています。しかしそれによって構成されるシビル・ソサエティの運営は議会に基づく政府です。人民は制限選挙なので、議会に代表を送り込むことが出来ないのです。つまりロックは、議会貴族制(パーラメンタリィ・アリストクラシィ)の枠内に止まっていたのです。よくロックを代議制民主主義の代表的思想家のごとく捉える人がいますが、彼が想定していたのは名望家という特権階級による政治です。

佐々木:しかしロックは社会契約の主体を人民全体と見なしていただけでなく、人民を人権の主体と認め、主権者に信託した権利を部分的と見なし、もし人民の自然権に対する侵害が耐えられないものと見なされる場合は、契約が破棄されたとみなして、専制的な政府を打倒しても良いという革命権を認めていますから、彼のシビル・ソサエティは人民全体が構成していると認められるのではないでしょうか?

やすい:それはそうかもしれませんね。二層構造で捉えていたかもしれません。

佐々木:ではルソーのソシエテ・シビルはどうでしょう。「ルソーは、自然からの分断を解消し、個人を単位とする市民社会を超える新たな回路を探りだすことになる」と石塚さんは表現されていますが。

やすい:『人間不平等起源論』で、牧畜・農耕によって土地を区切って、奪い合うようになり、それに冶金が加わって戦争に金属製の武器が使われるようになって、共倒れの危機になったわけですね。それで自分たちの利益だけを追求し合っていれば、共倒れしかないので、先ず全体がどうしたら共生できるのか、皆が幸せになれる方法について皆で話し合おうというスタンスで、全員参加の人民集会が開かれたということです。
佐々木:それは『社会契約論』ですね、全員参加の人民集会になると。

やすい:ええ、そうですね。ともかくそれがソシエテ・シビルの基礎だということでしょう。で、本当にそんなことあったのか、全くのフィクションだろうということで、社会契約説はフィクションに基づく議論で、勝手に作り上げた理念で、現実を裁断し、理念を押し付けるから、混乱が起こり流血になったということで、フランス革命の総括過程で、イギリス功利主義やフランス実証主義から形而上学として批判されます。

佐々木:全員参加の人民集会というのは古代ローマの民会がモデルではないかということですね。各町内会みたいな地域ごとの人民集会が持ち回りで決議をあげていって、元老院に圧力をかければ、その方が優先されるという民主主義的システムが一応あったのでしょう。それを18世紀のフランスで再現できるとは思えませんが。

やすい:でも本来、社会というものはそういう人民が皆で皆がどうしたら幸せになれるのかとことん話し合う、そういう総意つまり「一般意志」形成に基づくべきだという原理は貫くべきだというのがルソーの立場でしょう。そういうシステムが出来上がっているかどうかは実は二の次だということでしょう。ですからソシエテ・シビルというのは、何時もあるべき社会の姿として念頭におくべきなのです。そこからずれている現実や政府の政策、あるいは言論などを批判していこうということです。ですから、必ずしもルイ王朝に否定的だったわけではありません。

佐々木:彼は立法権は代理できないと言うわけで、全員参加の人民集会の形にこだわりましたが、法律を執行する行政府に関しては、フランスのような大国では民主主義では機能しないと考えていて、ルイ王朝が人民の総意に沿う政策をとる場合には積極的に支持していたわけですね。

やすい:ですから、ルソーの思想は、まったく非現実的なようにみえるのですが、実は民主主義の原理としては現代にも大きな影響を与えています。一般意志はすなわち国民の総意に基づくという意味では、国民の総意の尊重は現代政治でははずせません。日本国憲法で「天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく」とありますね。

佐々木:それから国会議員について「国民代表の原理」が規定されていますね。国会議員は全国民を代表しなければならないということは、国民全体がどうすれば幸福になれるのかということを踏まえた発言をしなければならないという意味ですから、これはルソーの発想ですね。これは何も国会だけではなく、会議一般に言えますね。それぞれが己一身の利害を通そうと発言したのでは、結局互いに腹の探りあい、力と力のかけひきになってしまって、皆にとって最善となる方法を見つけようという会議の本来の目的が実現しません。その意味ではルソーのソシエテ・シビルの立場にたって社会形成を行なうというのは、だれもが踏まえていなければ成らない立場とも言えますね。

やすい:しかしそれは建前みたいなもので、皆のためにこれが一番いいという形で発言していても、その人の利害が色濃く反映しているのが実情です。マスコミは公平と言っても、電力資本が強力なスポンサーになっているので、これほど甚大な被害が出ても、脱原発の立場で発言すれば、干されてしまう。ということで、結局市民社会は私的利害がぶつかり合う「欲望の体系」ではないか、それはイギリス資本主義の発展をみればよく分かるというのが、ヘーゲルのビュルガリヘ・ゲゼルシャフト論です。

佐々木:ただし、ヘーゲルは、その市民社会を経済の領域において捉え、それを超越しつつ、市民社会の利害を理性的に調整する政治的国家による統合を説いたわけです。そこでは市民社会自体は、利己的な人間の万人が万人に対して狼みたいなホッブズの自然状態を想定して、それを救済するものとして、その外に理性的国家を構想したということでしょう。

やすい:それでマルクスが、国家がそういう市民社会の上に成り立っているとしたら、国家は市民社会の支配者が支配を続けられるようにするための支配の道具ではないかという国家批判をしたわけです。それは、国家が国民の共同利益にたち、国民の利害を調整するという機能を果たすことは認めているわけですね。その上で、結果的に市民社会の矛盾を糊塗する国家を、階級支配の道具として告発しているわけです。

佐々木:それはそうなのですが、マルクスの場合は、市民社会自体をトータルに乗り越えようという発想があったわけです。その上で国家の死滅も目標にしていたわけですね。

やすい:その意味では私的所有を前提とする商品交換に基づく市場経済社会として市民社会が捉えられていたのでしょう。マルクスの構想していたコミュニズムは、私的所有をなくすということですから、商品交換に基づく市場経済もなくなり、全体が身内的な共同体になるということです。当然市民社会の利害を調整する国家も必要なくなるということですね。

佐々木:ただ二十世紀の現代社会主義体制というのが破産してしまったので、当面私的所有や市場経済を止揚するような市民社会をトータルに超克しようという議論は難しいでしょうね。

やすい:いや資本主義の原理の方も、利潤率の傾向的な低下が続いていて、ほとんど利子がゼロになってきています。そしてIT革命が進んで情報分野での無料化が進み、情報共産主義みたいになってきていますね。また別の形で私的所有の原理が根底的に問い直されつつあるという予感がしますね。それに伴う新しい思想が生まれて、この事態を対自化し、新たな共生、共創の仕組みを構築すべきなのかもしれません。

佐々木:その意味では、フランクフルト学派は市民社会を克服して自然との共生を可能にするような社会観、人間観を求めています。そして今や、「持続可能な開発」に基づいて、動植物や自然環境にも「自然の権利」を認める新たな「シビル・ソサエティ」観念が生まれつつあります。

やすい:その議論は、人間の範囲を諸個人の身体やそこに宿る人格に限定しないで、社会的諸事物や環境的自然にも必要によって広げていくべきだと言うネオヒューマニズムと方向的に一致していますね。
 

「身体論を軸にしたフォイエルバッハ思想」

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 9月 6日(火)22時34分24秒
  「身体論を軸にしたフォイエルバッハ思想」

佐々木:では、四月三日以来中断していましたが、石塚論集についてのコメント対談を再開します。『石塚正英論集グループ4:身体論・ロボティズム』からです。これはやすいさんのご専門の「人間論」ですので、コメントしやすいのじゃないですか?

やすい:いや、かえって難しいかもしれません。最初は「身体論を軸にしたフォイエルバッハ思想」ですが、私の人間論は、「身体論を超えて」ということなのです。

佐々木:社会的な諸事物や環境的自然も含めて人間を捉えるというネオヒューマニズムですね。諸個人の身体やそこに宿る人格に限定しないで人間を捉えるという事ですね。そのためにも身体性が媒介になるのではないですか。

やすい:フォイエルバッハはヘーゲルの理性主義に対して感性主義を対置しました。それで魂の立場に立つ観念論に対して、身体の立場に立つ人間学的唯物論を唱えたのです。これはドイツ観念論を乗り越えようとするあまり、理性をデカルト的な主観と混同してしまったのではないでしょうか。

佐々木:カントは『純粋理性批判』で、人間が認識できるのは現象界だけであり、あくまで意識現象でしかないので、意識として原理的に現われない物自体は認識できないとしましたね。その場合の意識現象は事物の本質や自然法則のような形式知だけではなくて、イギリス経験論での意識経験つまり感覚から高度な思考ままで含む現実の意識経験なのですね。

やすい:カントの場合に、イギリス経験論の徹底である、「事物は感覚の束」というのを踏まえながら、デカルト的な「考える我」も前提していたと思います。それで、認識できないけれど存在すると考えられ可想界に「神、魂、物自体」を考えることが出来たわけです。

佐々木:フィヒテ以降は、実践理性の優位の下で、物自体を廃棄することで、意識活動がそれ自体世界の構成という主意主義的な構図になり、「思惟と存在の同一」というドイツ観念論の同一哲学になっていくわけですね。

やすい:ええ、ですから意識とか思惟とか理性は、段階的な意識の発展があるわけですが、ドイツ観念論ではあくまでも感覚から高度な思考までつかって認識しているのです。ようするに抽象的な観念に脱色しているつもりはなかったでしょう。

佐々木:しかし、デカルトの自我が、カントの純粋理性・実践理性、フィヒテの絶対我、シェリングの絶対者、ヘーゲルの絶対精神という形でどんどん肥大している面もあるわけですね。それで自然や社会がそういう絶対化された自我の疎外態とされて、実際の有限者である生きた身体としての人間存在が見失われたので、フォイエルバッハのヘーゲル批判は説得力をもったのではないでしょうか。

やすい:ヘーゲルはそれを「他在にあって自己の許にある」と表現しました。つまり世界はあくまで意識内の出来事なのだけれど、それを自己の意識内に見ている自我は、自己を意識内容から超越的に捉え返す契機も必要だという事でしょうね。

佐々木:世界は意識としては自己の意識内で展開するにしても、その意識は自己の身体の外にある事物の連関を対象化しているわけですからね。デカルトだと自己の意識内で展開する事物は、事物の像にすぎず、本体は客観的な事物として実在しているということです。それに対してドイツ観念論ならあくまで事物は意識現象であって、意識によって構成されているが、そのことを自覚している理性は、自己を意識をまとめる意識自身の働きとして意識内容と区別して捉え返しているということですね。

やすい:ええ、フッサールのノエシス・ノエマを借用しますと、ノエシスを実体化したのが理性ということになり、ノエマを実体化したのが客観的事物ということになります。ドイツ観念論の場合は、思惟と存在が同一だということなので、意識内容と事物は別物ではないという意味で観念論なのです。ですからドイツ観念論の事物は感覚から高度な思考までで構成されているので、感性が抜け落ちているということはないのです。

佐々木:しかしヘーゲルの『精神現象学』でも分かりますが、意識は感覚的なものから悟性、さらには理性へと展開していき、理性に止揚されていきますから、感覚的な契機が低く捉えられているということは言えるでしょう。そういう理性の立場に対して身体の感性の立場を対置する意義はあったのではないですか。

やすい:ええ、感性的なものが理性的なものによって疎外されることを批判するのに身体の立場を対置するのは大いに意義がありますね。ただ身体の立場に固執してしまうと無理な説明になるのではないでしょうか。

佐々木:身体というのは生命活動の主体ということで、欲望を充足させ、個体と類の自己保存を図っているわけです。そして人間は身体として活動し、自然と対象的に関係し、人間としての類的本質を実現しています。自然を開拓し、街をつくり、産業を興しているわけですね。ところが個人は一人ひとりでは一つの仕事を受け持つだけなので、人類として行なった活動の成果を自分自身のものと実感できないので、それを絶対的な他者である神をバーチャルに作り上げて、あたかも神の為したことにように自己疎外してしまうというわけですね。ヘーゲルの絶対精神というのは、結局この人間の類的本質の自己疎外である神のことだろうと迫ったわけですね。

やすい:そこで、人間の類的本質を疎外しないためには、絶対精神が理性の立場に立っているので、逆に身体に即して感性の立場立ちきるべきだということでしょう。

佐々木:だって、他の諸個人と分業や協業をし、自然に働きかけ、さまざまなものを作り出しているのは人間の身体なのですから。その意味で、身体こそがヴェーゼンだということですね。ヴェーゼンと言えば「本質」と訳すところですが、石塚さんは特別の思い入れをこめて「存在者」と訳されています。

やすい:そうそう、そこが重要ですね。身体の対象になる自然もヴェーゼンつまり「存在者」だというのです。その場合類的存在(ガッツゥンクスヴェーゼン)としての人間の在り方は、私の身体に対してもう一人の自我をもつ身体が関わっている、自我―他我の関係ですね、この他我をアルター・エゴというらしいですが、石塚さんはアルター・エゴを我と対になった形で捉えて、類的存在を特徴づけておられるのです。

佐々木:いわば「相棒」ですね。「石塚―やすい」関係も、個性や論理はかなり異質なのですが、うまく響き合った時は、すごいパワーを発揮するよい「相棒」ですね。

やすい:それは「奇跡」と言うべきでしょうね。

佐々木:人格関係をハートとハートの関係として言う前に、ボディとボディとして言うというのは、先ず互いに感覚し合い、知覚し合う対象だということ、欲望の対象だということを実感するためでしょうね。

やすい:ええ、その場合にエゴとエゴだと火花が飛びそうだけれど、類的存在ということで、結びつき力を合わせて類的能力を発揮するということです。キルケゴールのように人間を「神の御前にただ一人立つ単独者」と捉えるのではなく、「我と汝」でユニットやペアになった類的存在として捉えたということです。

佐々木:この対象的関係を「我と汝」という人格間だけでなく、人と自然、自然と自然の関係としても捉えられるという事ですね。
その際、人間にとって大切なよりどころになる自然は、単なるディング(物)ではなく、ザッヘとして捉えられると石塚さんは指摘しています。ザッヘは普通事象とか物象と訳されますが、ヴェーゼンとして神として捉えられているという解釈ですね。

やすい:そこがフォイエルバッハのネオヒューマニズム的なところですね。身体は、活動として捉えますと、動植物を狩猟・採集・飼育・栽培して、調理して食べるということなので、「人間は食べるところのものである。」言い方をしているようです。

佐々木:そういう言い方は、すごく反撥されやすい言い方ですね。それなら「ライオンはシマウマだ」ということになり、全く破綻した論理だと言われかねません。

やすい:そういう反撥は、学生のコメントには多いですね。いや全く正常な反撥ですよ。たしかに「ライオンはシマウマではない」ですからね。

佐々木:しかし同時にライオンはシマウマなどサバンナの草食動物たちを食べて生きるところに特色があり、草食動物たちの数を調整してサバンナを守っているわけです。その意味では「ライオンはシマウマだ」というのも有意義な規定であるということでしょう。同じ理窟で、人間は人間が生み出した文化の総体として存在しているという捉え方がネオヒューマニズムということですね。

やすい:おもしろいのが神についてのフォイエルバッハの捉え方ですね。

「「神は愛である」とのフレーズは、「愛は神的である」というように、主語と述語を転倒して語るべきであった。あるいはまた、神を自然か、さもなくば人間それ自体に置き換えるべきなのである。」

佐々木:神は何か実体として存在するのではなく、人や事物の存在のあり方が神なのだということですね。たしかに我々は何か聖なるものを感じるのは、ひたむきな想いに生きている人の姿とか、悠久を感じさせる自然の姿を通してです。それによって支えられ、生きているようなものを神とするならば、三L教のように「光・命・愛」などが神であるというのは、胸にストンと落ちますね。

やすい:フォイエルバッハは神を人間の他者とみるのではなく、人間自身のあり方だとみなしているわけです。人間とは何かも、身体とそこにやどる人格として実体的に捉えるのではなく、身体や人間を構成している社会的諸事物、環境的自然などのあり方として捉え返せるでしょう。

佐々木:その点フォイエルバッハの人間学的唯物論だと、人間感性という身体の原理に人間性を求めているので、身体性にこだわりすぎだということでしょうか。

やすい:ええ、たしかに身体が感じるわけです。身体が受苦し、行動するという意味ではいいわけですが、それは社会的諸事物や環境的自然を人間の身体として捉え返すことによって可能になるわけですね。つまり身体論が事物のあり方論に脱皮しているのに、身体論の枠で語っているわけですね。そこに限界があるのではということです。

佐々木:まだフッサールやハイデッガーやマルクスとの比較が残っていますが別の論文でも議論できそうなので、このへんでタイムアップということにしましょう。


 

東アジア共同体論の偏差

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 4月 3日(日)21時56分34秒
  佐々木:戦前の満鉄マルクス主義の東アジア共同体論の再評価という極めてデリケートな問題に石塚さんは首を突っ込まれましたね。

やすい:現在東アジア共同体の議論が東南アジアと東北アジアを包摂するエリアで起こっていまして、そこにインドやオーストラリアなども含めるかなども議論になっています。それで戦前に日本のアジア進出の論理になった東アジア共同体論がどのようなものであったのか、見直そうということですね。

佐々木:その場合に、日本帝国主義のアジア侵略に協力し、その理論的正当化を図った議論として大上段から批判するのではなく、そこにもアソシエーションの試みがなされていたのではないか、積極的に評価し、継承すべきところがあるのではないかという問題意識です。

やすい:これは第二次世界大戦とか日本の中国侵略をどう見るのかということが絡んできます。戦争に対する反省を前提にしたうえで、思想としてアソシエーションの試みを救い出そうとするのなら大いに行なわれるべきでしょうね。

佐々木:コミンテルンや中国共産党、日本共産党の立場から言いますと、日本帝国主義の中国侵略は、全く許しがたい犯罪的行為ですが、東アジア共同体の形成は欧米帝国主義からアジアの解放だという立場に立てば、日中間の主導権争いも不可避だったということで、戦争自体もある程度擁護できるのですか。

やすい:最近、極左と極右に両脚を跨いでいる格好の千坂恭二さんなどの議論では、そうなるかもしれませんね。石塚さんの立場を推測するのは難しいところがありますが、私の場合は、やはり日本軍国主義のアジア侵略を日本帝国主義のブロック支配、さらには世界支配への野望とみますから、到底容認できません。東アジア共同体の建設は、日本軍の大陸展開と連動せずにだされるべきであったので、張作霖爆殺事件や満州事変と連動して出来ている以上、内容が如何にアソシエーション的要素があっても、実際には侵略を合理化、美化するものでしかないということですね。

佐々木:そうすると三木清や船山真一なども参画した昭和研究会の東亜協同体構想も戦争協力を偽装した抵抗とはみないということですか。

やすい:だから何に抵抗したかということが問題なのです。東アジアでの軍事的展開に抵抗していたわけではないじょう。彼らは帝国主義的侵略になってはいけない、各民族の自主性、独立性を尊重して、協和をはかっていかなければならないとして、軍部の乱暴なやり方に反対したわけです。ですから日本のイニシアティブを東アジアで確立して、その上で、彼らが構想する農本主義的なアソシエーションの建設などを考えていたわけですから、そのアソシエーションの思想的な内容については大いに再評価すべきだとしても、それとは切り離して、彼らが戦争に参画して行ったこと自体は大いに反省すべきだということです。

佐々木:しかし現実的には戦争自体には反対できなかったわけですね。刑務所に入らずに侵略に抵抗するのは、そういう形でしかなしえなかったという意味で、立派な抵抗と言えるのではないですか。

やすい:それは少し違うと思いますね。それだったら彼らは心の中で戦争反対だったけれど、意に反して戦争協力したことになります。そういう人もいたかもしれませんが、実際には、昭和研究会でも満鉄マルクス主義者でも日本の中国侵略に乗っかって東亜協同体の夢を描いていたと思われます。

佐々木:ということは戦前の右翼の五・一五事件とか二・二六事変とかの動きなどは、財閥と政党の癒着を糾弾し、国家社会主義的な傾向も示していたわけですから、軍部の大陸侵攻に乗っかって、東亜協同体を建設するというのは、一つの革命幻想でもあったということですか。

やすい:大戦間時代には世界大恐慌なども起こって、資本主義が色々改革を迫られるわけで、国家財政の力で事業を起こしたり、社会保障体制を作り上げたりしていかなければならない。労働組合を強めて失業の増加を防いだりする事も必要です。そういう修正資本主義的な改革などもイデオロギー的には社会主義的な色彩を持っていた。また国内矛盾を外に向けるために、軍事力を背景に勢力圏を拡大して、資本の利権を拡大するだけではなく、恐慌であぶれた人たちを開拓民として送り込むとか、強引に戦争体制を強化して、国家総動員体制にしていくのも国家社会主義的イデオロギーで行われる傾向にあったわけです。そうしておけば右翼的な人々だけでなく、かつて左翼だった人も動員できるわけですね。その典型が満鉄マルクス主義です。

佐々木:橘樸(しらき)は、満州を独立国にしてそこを大同社会にしようというユートピアの夢を描き、石原莞爾と手を結ぶわけです。ようするに農民の自治組織や協同組合を作って開拓していこうということですね。

やすい:それは面白いということで、満鉄マルキスト大上末広とか佐藤大四郎らが乗って、「郷村協同組合政策」や「農事工作社」構想が出てきます。それで実際に元左翼活動家だった人々を中心に貧農を組織して合作社づくりが行なわれていきますが、憲兵隊がこの動きを共産主義と見なして弾圧にしたのが「満鉄調査部事件」です。

佐々木:ややこしいですね。大陸情勢次第では、革命拠点にもなりかねないと見られていたわけですね。合作社というのは新中国になって人民公社に発展しますが、満鉄マルキストたちが作った合作社の影響が見られるのですか。

やすい:一九二〇年代に現われまして、農村改革運動の一環でした。その継承・発展が新中国の合作社・人民公社です。むしろ中国の農村改革運動から影響を受けたのではないでしょうか。

佐々木:大陸に渡って、中国革命の息吹を受けて大東亜建設の夢に人生を賭けた人が居て、彼らなりに中国革命に刺激をあたえたこともあったのでしょうね。

 それはともかくとして、満蒙開拓という困難な事業に日本の農民たちも挑戦したわけですが、そこにはやはり社会改革の意識も育ったと捉えるべきでしょうね。

やすい:そうですね、これは国内でも言える事ですが、戦争を総動員体制で遂行していこうとすれば、今までの寄生地主制ではやっていけなくて、農村でも小作料の引き下げや農地改革の走りみたいな事が必要になり、協同組合作りみたいなのも現われてきます。戦後社会党の指導者になった勝間田清一なども企画院の官僚として改革に携わったようです。産業界でも後に日本的経営と呼ばれるような終身雇用制や年功序列型賃金が定着していきます。

佐々木:勝間田清一的な動きも、国策を受け入れながら抵抗したものとして評価できないのですか。

やすい:だから、改革の中身を前向きに評価し、継承して行くことは大いにやるべきだということです。ただ個々人のいろいろ違いがあると思いますが、「受け入れながら抵抗」した人々も大部分は侵略戦争に対しては協力的であり、おおむね軍部に対して迎合的であるか、積極的に支持していたわけです。そのやり方の強引さとか、無遠慮さを批判していたとしてもです。再評価を求める人々は「抵抗」したという一点を持って、彼らが日本帝国主義の侵略戦争自体に抵抗したかに過大評価しようとするところに問題があるのです。

佐々木:それじゃあ、やすいさんは三木清の生まれ変わりなのに、三木清も評価できないということですね。

やすい:生まれ変わりというのはジョークですよ。偶然一九四五年、九月二十六日未明に三木清が獄死した時に、私が産声をあげたということです。私は三木清は尊敬していますし、彼の人間学は高く評価し、交渉的存在としての人間論の現代的意義を強調しています。彼の勇気ある軍部批判や帝国主義的ではいけないという立論は大変立派だと思います。そして東亜協同体の理念には大いに共感し、継承すべきところが多々あると思います。ただし、彼も石塚さんも言われている通り満鉄マルクス主義と同様に、侵略戦争に参加する中での議論だったという限界は免れません。

佐々木:しかし軍部に抵抗するにはその道しかなかったのではないですか。獄に入るより、実際に抵抗できたのですから。

やすい:いや、もし三木清なり、舩山信一が心の中では戦争に反対して、口では迎合していたのなら、それは嘘も方便で、戦争に反対するために一時しのぎだったと言えると思います。そういう人は少なかった。ほとんどいなかったでしょう。ただし、戦争責任とか侵略反対とかの視点からだけ評価してそれで終わりではないわけで、現在のように東アジア共同体構想が議論されているときは、大いに東亜協同体論の見直し、再評価がなされるべきですし、アソシエーションがこれからの東亜協同体でどのように可能なのか大いに議論すべきでしょう。

佐々木:そういう意味では権藤成卿のアソシエーション的な社稷の捉え方、それを発展させた橘孝三郎の「完全全体社会」など農本主義的で右翼的な色彩が濃かったのですが、そのアソシエーション的な核はしっかり再評価すべきだということでしょうか。

やすい:もちろんそうです。その上アーキストの石川三四郎の「複式網状組織」なども挙げていますね。地域的な村々の連合に加えて、職業組織、消費組織、交通、通信など様々なネットワークを網羅し、複合させて横つながりの社会を形成し、上意下達の権力的な社会構造の解体わはかろうというものです。

佐々木:現在ではそれを東亜全体、あるいはグローバルに展開すべきだということで東亜市民憲法、地球市民憲法の必要を唱えておられますね。やすいさんの「グローバル憲法を作る会掲示板」の運動と通じるところが在るようですね。

やすい:ええ、そこらあたりは石塚さんと周波数が近いような気がします。
 

市民社会からアソシエーションへー個人主義から関係主義へ

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 4月 1日(金)16時05分27秒
  佐々木:地域主権を掲げて、石塚さんは市会議員選挙で応援運動を展開されたそうですね。市町村が徴税して、余りを国庫に納める式の大胆な税制改革までぶち上げておられるようですよ。

やすい:これは難しい問題ですね。市町村という一番身近な自治体に主権を置いて果たして、国民経済がスムーズに機能するのかということがあります。中央集権にしておくと、地域格差が開くばかりで、地方が衰退するという議論ですね。先ず地方が徴税して、地方からやっていけば、それぞれの地方が自分の努力で地域起こしが出来るじゃないかという理窟です。

佐々木:うーむ、気持は分かりますが、国民経済の単位は日本全体ですから、国家が中心に回していかないと、却って税収が多く集まる大都会を抱える都市に有利になり、地域格差はますます広がることにもなりかねませんね。

やすい:そういう側面もあるのですが、国家が総て回すと官僚主導型になります。すると官僚はさまざまな外郭団体を作りまして、官僚機構が肥大化し、厖大な税金の無駄遣いや不能率を結果します。ですから地方に権限を委譲してもらって、地域から先に税金が回るようにしておかないと、地域が疲弊する一方なのです。

佐々木:やすいさんが指摘されておられる「国家の疎外」ですね。地域に実権を下ろすということは、地域の方が住民が参加しやすいので、官僚機構の肥大化をチェックしやすいので、効率的に運用できるということですか。

やすい:それに経済のグローバル化で、国家の金融・財政政策の効果が非常に限定的になってきたので、政府の仕事をもっと重点的なものにした方がいいという人も多いですね。グローバル化が進行すれば、日本も地方だということになり、都道府県や道州のひとつ上の自治体だということで、権限が相対化されるのです。

佐々木:いずれはそうなるとしても、世界的な通貨統合がなされ、国連銀行が世界の唯一の発券銀行になり、グローバル政府が、グローバル・デモクラシーに基づく金融・財政政策を行えるようになるまでは、日本政府がやはり主権を行使し、地域主権は目標に止まらざるをえないでしょう。

やすい:それは逆に言えば、その方向に進んでいるという事ですから、地域主権の考え方を成熟させ、先行的に出来るところからやっていく事も必要になってきます。なかなか急にやれといっても出来るものではないでしょうから。

佐々木:では次の論点に移りましょう。アソシエーションを政治なき社会という意味のソキエタスとして捉え、国家という意味のキヴィタスに対置していますね。つまり国家権力によって上から統治されるのではなく、市民や団体が利害を自分たちで調整しあいながらやっていこうということですね。

やすい:最近の若い人は共産主義とかマルクス主義とかは強権国家、共産党独裁国家のイメージが強くて、元々は政治をなくし国家を死滅させて、自由な市民の共同社会を実現しようとする思想だったことも知らない人が多いようですから、先ずそういう理念には石塚さんも共鳴しておられるわけです。ただマルクスらコミュニストとクロポトキンらのアナーキスト(無政府主義者)の違いは最終的目標は同じだけれど、政治的な統治をなくすためには、一時期、労働者階級が独裁的な権力をにぎって自由な市民の共同体に社会がすっかり生まれ変わるまで、反動的な階級の妨害から社会を守らなければならないと考えていたわけです。これが後の共産党一党独裁国家を生み出すことにもなるわけですが。

佐々木:資本主義社会が現に存続して国家権力による統合があるのですが、その政治的な国家統合の原理でなくて、アソシエーションでやっていこうといっても、そういう条件はあるのですか。

やすい:アソシエーションは運動であり、関わり方だというのが石塚さんの捉え方ですから、権力的な統治の原理でなく、自由人の連合の感覚で物事を処理していこうとする生活スタイルを可能な限り追求し、広げていこうとする生き方ですね。

佐々木:プルードンの言い方では「公認の社会」がキヴィタスで「真実の社会」がソキエタスだということですね。それで公認の社会は、所有(資本)、権力(国家)、キリスト教(支配宗教)によって民衆は抑圧され、真実の社会は窒息させられて見えなくなっているわけですね。でも「公認の社会」と「真実の社会」は同時に併存しています。威力を誇っている公認の社会を萎縮させれば真実の社会が現われると言います。こうした文脈で、石塚さんは地域主権の運動を進めて行こうとされているわけですね。

やすい:おそらくプルードンについては読んでないのでわかりませんが、資本家の支配に対しては労働貨幣や協同組合企業で対抗し、国家支配には政治に対する不参加で無効にし、キリスト教に対しては啓蒙で対抗するということでしょうか。ただ十九世紀的現実では政治は階級支配の道具みたいな側面が強かったかも分かりませんね。とくに夜警国家的な小さな国家の理念では、労働者階級など貧民階級が悲惨な状態にあるのに、国家は何もしようとしないこれでは革命を起こすしかないということです。さすがに十九世紀の後半には工場法が発展し、学校ができて児童労働が禁止されたりし、国家が国民の公共の福祉を担うようにもなってきますと、労働者階級も参政権を強めて政治に参加しようとします。その意味ではアナーキーな対応というのは、アナクロニズムになっていきます。

佐々木:しかしそれは他面、植民地における収奪があって、それで国内の労働者階級を懐柔することができたわけで、矛盾を植民地にしわ寄せしているわけですね。そこで結局植民地争奪で帝国主義間戦争に突き進む事になりますし、国内の経済恐慌もより大規模になり、全般的危機を迎えることになります。ですから国家が階級支配の道具だという理論は二十世紀になってもある程度説得力を持っていたわけですね。

やすい:皮肉な事にそうなれば余計に、国家は国民生活の隅々まで管理し、統括するようになります。我々のような低所得者階層は国家財政によって、あるいは国家的な社会保障体制によって辛うじて生活を支えられるようになります。その意味では国家のコミュニティ的役割は増大したのです。ですから地方分権とか地域主権とかいう議論に対しても、国家が担ってきた社会保障体制がそれでカバーできるのかどうか不安ですね。

佐々木:しかし、国家は国民生活の隅々まで介入するようになったので、その機構が肥大化し、厖大な利権を生み出し、結局無駄な仕事が増えたため、重税国家になってしまい、国家が自己疎外に陥っているわけですね。福祉が担えなくなった国家は再び支配の道具でしかなくなっているのではないですか。

やすい:菅直人総理大臣の出現は、民主党政権では市民は運動出身の庶民政治家が首相になったということですから、国家の自己疎外も我々庶民も、もっと自分自身の責任で捉えるべきではないかとと思います。キヴィタスとソキエタスに分けて国家統治をキヴィタスに振り分ければそっちを縮減すればいいみたいな議論になるかもしれないけれど、むしろキヴィタスからソキエタスへみたいに国家を改造していくべきではないですかね。

佐々木:自治体と国家といっても地域規模の違いでしかないとすれば、国家だけ統治型でいいわけではなく、国家も調整型にし、団体とか市民の利害を調整するようにすればいいということですか、それだと不能率だし、一貫した理念で、現代の大きな課題に取り組んでいく事は難しくなるでしょう。

やすい:なるほど、それに地域こそその土地の文化的伝統や気候、風土などと密着した独自の理念でミニポリスの理想国家造りみたいなものをやってみたい気もしますね。そうするとポリクロニカルかモノクロニカルかの二者択一ではなく、国家規模でも地域規模でも、場合によってはグローバルにおいても両者の弁証法的な拮抗と調和、統合などがダイナミックに追及されるべきだということになるのかもしれません。

佐々木:それじゃあ、政治の止揚、国家の死滅は永久に無理だという事ですか。

やすい:そういうことも含めて、一から考え直す必要があります。つまり何一つはっきり分かっているものはないということが、良く分かりますね。ソクラテスですよ。無知の知の自覚が必要じゃないでしょうか。いや石塚さんが分かっていないのじゃなくて、私が分かっていないということですよ。

佐々木:家族も父権的なモノクロニカルな家族から、母権的なポリクロニカルな家族へという問題を提起されていますね。

やすい:女性の社会進出が進み、少子化が進みますと、ジェンダー的な家庭内分業が解体しますし、離婚しやすくなってきます。そうしますと母親の実家が中心の未開の母系社会みたいになりますね。母方の祖父や伯父が父親代わりになってきます。離婚体験を嫌がって、結婚せずに実家で未婚の母になることもありえますね。そうすると通い婚みたいになります。

佐々木:つまり夫婦関係が希薄で、その絶対性が人間関係の基本単位としての家族を規定しなくなるということですね。それって倫理学的にみてどうでしょう。既成の家族の解体は、ペシミズム、ニヒリズムにつながり、無気力社会を造り上げることにならないでしょうか。

やすい:実際、そのおそれは現実化しつつあるようですが、夫婦とその子単位の家族は近代の産物でもあるわけでして、新しい時代になってきているので、さまざまな形態の家族が並存して、それぞれが充実した個人として親として夫婦としての生活をおくれれば良いので、愛の形を固定的に考えるのもどうかと思います。

佐々木:それに目的を一つにする集団が共同体を作ったり、共同生活をしたりして、保育を集団でするような、新しい家族も登場するでしょうね。

 

石塚正英論集グループ3 アソシアシオンの想像力

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 3月29日(火)16時35分35秒
  佐々木:東西冷戦の終焉の頃から、マルクス研究家の間で、マルクス主義をアソシエーションを核に捉え返そうとする動きが活発に成りました。資本主義社会を打倒して社会主義社会を作るという革命路線が次第に現実的ではなくなってきたので、資本主義社会の内部で連帯や連合によって、資本主義的搾取や利潤追求という原理でない社会を構築していこうとする思想と運動ですね。

やすい:マルクスは未来社会を「自由人の連合」として特色づけましたが、この連合がアソシエーションに当たるわけです。そして共産主義を到達すべき未来であると同時に、それを目指す現代の運動の中に求めたのです。冷戦終焉後、当面歴史的将来に共産主義を展望することが無理となれば、当然現在の運動の質の中に「自由人の連合」を求めようという動きになりますね。

佐々木:「自由人の連合」をコミュニズムとして求めていたわけですね。ところがアソシエーションを求める人々は、コミュニズムが破綻したのでアソシエーションを求めるという感じを受けるのですが。

やすい:マルクス自身はあまり将来のことに予め枠を嵌めておくみたいな事はしませんでしたので、未来社会のイメージは明確ではないのです。テンニースの「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」という分類でいくと、共産主義の共同体はゲマインシャフトで、アソシエーションはゲゼルシャフトなのです。ゲマインシャフトだと共同体あっての構成員という感じで、ゲゼルシャフトだと自由な個人の自由な選択で連合しているという感じて、人格的独立性が前提なのです。現代社会主義では自由人の連合とは程遠いものでしたので、現代社会主義の失敗を踏まえて、自由人の連合を目指そうという事で、アソシエーションに注目が集まったということでしょう。

佐々木:田畑稔さんが冷戦終焉期にマルクスをアソシエーションを軸に読み直しをしまして『マルクスとアソシエーション』を書かれ、それ以来アソシエーション運動の理論的支柱になっておられるのですが、石塚さんは学部学生だった一九六〇年代末からヴァイトリングの研究を通じて、ヴァイトリングのアソシエーション論を継承されておられるようですね。ですからアソシエーション論では石塚さんの方が年季が入っているわけですね。

やすい:田畑さんの場合は、マルクス文献の読み直しから構成されているのですが、実体として現に存在する様々なアソシエーション運動体に理念を提供されておられるのです。石塚さんの場合は、元々がノンセクト・ラジカルですから、彼の豪傑的な行動、人々を運動に巻き込んでいく生き方がアソシエーションなのです。彼は実体としての組織を作ってアソシエーション社会を形成するのではなく、人々と自由な個人として、共同の目標のためにいろんなヴァリエーションで連合していくのがアソシエーションなのです。

佐々木:だったら第一次の石塚・やすい対談もアソシエーションだったということですね。この予備対談も含めて第二次対談もアソシエーションですね。第一次ではイエスの聖餐による復活仮説が飛び出してきましたが、第二次は何が飛び出すでしょう。

やすい:あれは奇跡的なことですから、そう二度も三度も凄い仮説が飛び出したりはしないでしょう。ただコミュニズムよりもアソシエーションを選好する動機は、田畑さんの場合は〈独立した自由な人格〉の連合というところにありますが、石塚さんの場合は、実体的な組織性よりも関係性においておられるのです。

佐々木:ああ、石塚さんは、ノンセクトの活動家だったので、組織で固まってしまうのがいやなわけですね。でもアソシエーションといえば企業や組合だってアソシエーションなわけで、石塚さんが嫌いな政党だってアソシエーションでしょう。

やすい:ええ、それはそうなのですが、だからアソシエーションは本来自由な個人のつながりで実体的な組織にそぐわないのだけれど、継続していくと組織として固定し、組織自体の存続、発展が自己目的化してしまい、メンバーは単なる組織の駒になってしまうわけですね。そういう疎外に陥ったら、本来のアソシエーションじゃないということがおっしゃりたいのでしょう。

佐々木:会社でも従業員の生活がかかっているということで、共同体的性格を持ってきますね。アソシエーションもコミュニティとしての役割も担う事で、機能を継続できるということが多いわけです。ですから二者択一や選好の問題ではないでしょう。人間関係、社会関係は自由な交わりと人格的依存の両面が裏表になっています。

やすい:いや、仰る通りです。私などは一匹狼的なところが強くて、なかなか組織を立ち上げたり、纏め上げたりはむつかしいですね。ヴァイトリングの義人同盟というのは、イエスの率いたカファリナウムの「神の国」を理想化して、秘密の革命結社を作ろうとしていたわけです。ところがマルクスたちが介入してきて、イニシアティブを奪われ、アメリカに渡ってアソシエーション運動を続けたらしいですね。「アソシアシオン」を意識的に説くのはアメリカ移住後らしいですね。

佐々木:石塚さんは『共産党宣言』は『共産主義者宣言』だったとしていますが、当時はまだ共産主義者同盟しかなかったので、『共産党宣言』だったというわけです。そのことで石塚さんは議会制度や国家体制に組み込まれた政党の宣言ではなく、共産主義者たちのアソシエーションとしての宣言をイメージされていたのでしよう。

やすい:搾取や圧政のない自由な経済体制をどう作っていくか、そのための分業や協業の形式をどうすべきか、知識や文化の伝達交流をどのようにしていくかは、主体としての人格的な諸個人の関わり方によるわけでして、それぞれの都合や事情を互いに尊重し合って、融通し合い、調整し合えばいいということです。単一的な原理でモノクロニカルな文化ではアソシエーションは育ちにくいのですが、同時進行でいろんな仕事を融通しあい、調整し合って進めていくようなポリクロニカルな文化ではアソシエーション的なものが育ちやすいということらしいですね。

佐々木:石塚さんは北欧はモノクロニカルで南欧はポリクロニカルだということですが、その原理でいくと調整だとが複数の原理があるために手間取って時間にルーズになるのはポリクロの方だということになります。それで日本はどうかといいますと、典型的なポリクロニカルだと世間では言われているようですね。会議の時間などは、開始が遅れたり、ずるずる長引いたりしますね。でも列車の時刻表などは正確に運用されているようですが。

やすい:それは比較文化論として面白いテーマですね。政治学的には多元的な調整を重視する多元国家論だと、国家も社会集団の一つとして相対化されますね。それに対して主権の絶対性に基づく主権国家論だったらモノクロニカルということです。二十一世紀はグローバル化が進行しますので、国家ができることは極めて限定的になってきます。グローバル・デモクラシーに基づくグローバル政府によるグローバルな富の再分配を行ないつつ、いままでの国家は自治体化していくことになり、市町村や府県や州等と役割分担していくことになるでしょう。だからポリクロニカルな社会にならざるをえないのです。そしてさまざまな分野でアソシエーションを形成して、市場経済や資本主義の弊害を除去あるいは緩和していけるようにしようということですね。
 

儀礼の二類型とその意味

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 3月26日(土)09時47分54秒
  佐々木:「儀礼の二類型とその意味」という論文は、フェティシズム(物神崇拝)の儀礼とイドラトリ(偶像崇拝)の儀礼を比較対照していて、分かりやすい論文ですね。三段階で説明されています。

第一段階が「自然的自然―裸の自然」です。
第二段階が「社会化した自然―人間的自然」です。
第三段階が「物象化した社会―社会化した自然の再自然化」です。

第一段階から第二段階にするのが、労働であり、フェティシズムの儀礼です。
第二段階から第三段階にするのが、分業、市場、神殿でのイドラトリの儀礼です。

やすい:労働によって自然を人間化すると同様に、フェティシズムでは神をつくり、その神に働きかけて願いを叶えようとするので、大人しく祈っているだけでは駄目なようですね。

佐々木:まず神にするには、ギリシアの先住民ペラスゴイの場合は、ドローメナでその周りをぐるぐる回って、レゴメナで声かけをするわけです。

やすい:蛇や石ころを儀礼で神に指定するだけでなく、縄文土偶のように大地母神を土で彫刻して作るのもフェティシズムに含めていますね。

佐々木:ええ、そこは興味深いです。ふつうなら偶像崇拝に分類されるところでしょうが、石塚さんは土偶は大地母神の偶像ではなく、大地母神それ自体であるとされているのです。

やすい:それはもし偶像なら偶像を破壊しても神を殺したことにはなりませんが、土偶を大地母神自体だと思っていれば、土偶を破壊することは神殺しですね。土偶はわざと壊したのですが、それは殺して土に埋めるとまた再生してくるということで、生命の循環の思想に基づいて殺しているわけなのです。

佐々木:そう言えば、トーテム動物を普段は絶対に食べないけれど、お祭りの時には食べるのも、神を殺して食べる事で、再生させるという意味があるようですね。

やすい:仏像崇拝も普通は偶像崇拝と思われがちですが、土偶と同じように活きた像としてフェティシュの役割を果たすものもあるわけです。その代表的な例が雨降り地蔵ですね。旱が続くと雨降り地蔵を脅迫して、「雨降らさんかったら、池に放り込むぞ」といって池に放り込むのですが、一九九四年の時は、天気予報では雨が降るはずがなかったのに、雨が降ったので大変話題になったそうです。

佐々木:京都の城陽市の雨降り地蔵は、普段は池に沈められているのですが、日照りが続くと雨降り地蔵を池から引き揚げるそうです。すると地蔵は乾燥が苦手なのか雨を降らせるそうです。ところが引き揚げたままだといつまでも雨が降り止まないので、池に戻すと降り止むそうです。

やすい:ともかく雨降り地蔵はそうなると実際に雨を降らせる神として崇拝されているのでフェティシズムだということですね。『法華経』で出てくる「地涌の菩薩」は、菩薩石像だと思われますが、末法になったら「地涌の菩薩」が出現するとされています。地面からニョキニョキ涌き出てくる活きた石像なのです。これを期待して新潟の関山神社の石仏は膝までしか作っていないのです。やがて石が成長してくるのを期待しているそうです。

佐々木:仏像でも一木造りの仏像だと神木からそのまま仏像を彫り出すので、その仏像は活きた神のように霊験を示すということです。またたとえ寄木造りであっても、魂を籠めて仏の慈悲を彫り込んだものなら、それ自体が仏であるようなオーラが感じられますね。

やすい:でも唯一絶対の超越神を信仰していますと、ただの偶像なのに、石や金属や木の塊りを神仏として信仰するのははなはだしい冒涜だと決め付けるのです。

佐々木:キリスト教の場合はイコン(聖像)の偶像崇拝を認めていますね。

やすい:イコンは厳密には偶像ではないとされているのです。ただし神そのものでもありません。神を想起させるものとして崇拝ではなく、崇敬の対象だとされます。ただし超越神の場合は「見えざる神」ですから原理的にイコンにもできません。キリスト教の場合は、子なる神イエスは人の子ですから、姿があり描く事が可能であり、イコンにできるわけですね。ただし聖職者により、聖化されなければならないとされているようです。

佐々木:ですからキリスト像自体はイエスではないので、それ自体に本来霊験はない筈ですね。でも実際は「泣きマリア像」の涙で盲人が癒されたりしていますね。十字架信仰というのもあって、吸血鬼ドラキュラはニンニクと十字架に弱いですね。

やすい:ええ、イコンが呪具化することがありますね。なんとか目に見える神を作り出したいというフェティシズムが、キリスト教徒には残っていて、それが逸脱的にフェティシズムが顔をだすのかもしれませんね。

佐々木:この論文はよく読んでみますと、ほとんどフェティシズムの儀礼について語られていて、イドラトリの儀礼についての展開が少ないのが残念ですね。イドラトリの儀礼が疎外や物象化としてどう展開するのかをもっと解明して欲しかったです。

やすい:それはそうですね。まだまだ論文はありますので、別の論文で本格展開があるでしょう。この論文からは、神が精神的実体として非物質化されることで、神は不可視のものとして偶像の背後に潜むわけです。フェティシズムではフェティシュそれ自体が端的に神であるのに対し、偶像崇拝では偶像の背後か天上になにかいっそう高級な神霊が存在するとされています。

佐々木:その場合、偶像崇拝は精霊信仰を意味しているのですか。キリスト教が支配するようになりますと、それまでの多神教の神々は否定され、精霊に格下げされますね。フェティシズムでは山や森や池や川などが端的に神だったのが、事物の背後に或る精霊が信仰とされます。でも精霊はやはり霊である限り、事物ではないので、もう事物信仰ではないわけです。精霊の像はイコンとして崇敬されるかもしれませんが、精霊信仰は偶像崇拝イドラトリではないでしょう。

やすい:石塚論文のイドラトリについての解釈が不分明なまま残ってしまいましたが、読み進んでいくうちにその疑問が解消するか、石塚さんからなんらかの納得いく説明があるかもしれません。うまく説明できませんが、精霊を宿しているとされる自然物を崇拝することを自然物自体し聖性がないのに崇拝されているので偶像崇拝というのかもしれません。もちろん神像や偶像も神でないものを神として崇拝するので偶像崇拝ですが、その中でフェティシズムが復活していて、偶像でなくそれ自体が活きた神仏になっている場合を雨降り地蔵などに見出されて、現在に残るフェティシズムとして再評価されているのではないでしょうか。
 

祭りの端緒と祀る意味

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 3月24日(木)15時46分31秒
  佐々木:まず信州大学の松本キャンパスに鎮座する稲荷神社が政教分離を定めた憲法に反するかどうかという問題から入っています。石塚さんは、聖職者の宗教儀礼で神霊を抜いて本社にお返しするか、別の神社に合祀すればいいということを言われます。

やすい:神霊がいなくなれば、建物は文化財として大学が管理すればいいという理窟ですね。でも実際はそう単純じゃないのでしょう。

佐々木:一つは建物の立替で神霊がリフレッシュするということもあり、神霊の座す社も或る意味神霊の体として霊性を持つという面もあります。それから稲荷神社は同時にその土地の産土神の役割を果たしていて、勝手に神霊を抜くということは、その地域のコミュニティの核となっていた神社をなくすことであり、地域コミュニティの解体につながる恐れが在るという事ですね。

やすい:神社神道の特徴の一つに本来の神霊の他に、その土地の産土神に成るという事が在りますね。稲荷神社、八坂神社、八幡神社、天照神社と全く異なる神なのに、同時にその土地の産土神社に成って、その土地と土地に暮す人々を見守っていることになっています。

佐々木:神社神道の場合はきちんとした教義体系があるわけではないので、どうして全く異質の神を兼ねることができるのか、合理的な説明がありません。ただそういうことにしておかないと、信仰には流行り廃れがあって、神社が財政的に立ち行かなくなります。産土神社にしておきますと、その土地に豊穣をもたらし、災害から護ってくれるので、地域から護られて神社も続ける事ができるという事です。

やすい:それは石塚理論で説明がつくでしょう。地域の人々がドローメノンで稲荷なら稲荷に働きかけて産土神にも成って貰うのです。もし産土神社と稲荷神社が別々という事になれば、産土神社では土俗の民間信仰に終わってしまって、神としての権威がつきません。逆に稲荷神社は豊穣ということで、効能が限定されて、都市などでは根付きません、産土神社ということにすれば地域に根付きます。

佐々木:ということは「~神社」として物理的に存在している事がそれを産土神にする根拠だということですので、これもフェティシズム的ですね。

やすい:元々産土というのは命を生み出す大地のことですから、神社があろうとなかろうと存在するわけです。後は産土神を祭る場所ですね。それでその地域にある「~神社」でお祭りしたわけです。それで稲荷神社や八坂神社が同時に産土神社だということになったのです。

佐々木:それで稲荷神社の社が産土神の身体として崇拝されているということですね。元々稲荷神社の神霊というのも、七一一年(和銅4年)二月初午の日に伊呂具秦公(イログハタノキミ)が京都伏見の伊奈利山に社を建てて 倉稲魂神(うかみたまのかみ)などを祀ったのが起こりです。
それまでは神社で祀っていなかったわけですね。

やすい:そうなんです。でもそういう穀物霊への信仰がなかったわけではないのです。それは庶民はまだ竪穴式住居みたいなところに住んでいたのだけれど、穀物は高床式の倉庫に鎮座していたわけですね。もちろん風通しをよくするためですが、非常に大切扱われていた。穀物自体が霊的存在と見なされていたわけです。

佐々木:神社によって鳥居だけ在って、社がないとか、拝殿はあるがご神体は置いていないとか、ご神体は神の名前を書いた札だけのところもありますね。鏡や剣や玉がご神体として祭られているものもありますし、そしてご神体として神像が祭られているところもあります。

やすい:それぞれ神霊に対する捉え方が異なっているわけですね。鳥居というのは神霊が鳥になって舞い降りてきた、鳥が止っている木を表しているという解釈があります。社がないというのは、木だとか山だとか海だとがご神体になっていて、自然物がそのまま神として崇められています。物と霊の区別が全くない場合ですね。これが一番原初的なのです。名札の場合は、神が事物ではなく現象やはたらきだったりする場合です。器物が神の場合、そのまま器物が素晴らしいので神ということもありますが、天照大神が鏡としてご神体になっているということがあります。天照大神は太陽であり、光を反射する鏡であり、神霊が降る巫女でもあるという三位一体なのです。スサノオは荒ぶる神ですから、大嵐ですね。と同時に嵐を呼ぶ男というか、嵐のごとき侵略者です。出雲王国の創始者がスサノオなのです。そして彼が八岐大蛇から取り出した天叢雲剣がスサノオだということです。

佐々木:それは物心二元論でスサノオの神霊が嵐や侵略者や剣に宿っていると捉えてはいけないのですか?

やすい:どうも霊というのは身体の中の不死の部分ですが、他方で『古事記』でも沙庭で神功皇后が神寄せをしますが、シャーマニズムの憑霊があります。シャーマニズムは未開時代から盛んで世界中にありますね。物心二元論でいう精神的実体としての霊もシャーマニズムから由来すると思いますが、これらを整合的に説明しようとしますと、肉体の不滅の部分としての霊は変態するということです。鳥や蝶や魚になって異界に行くだけではない。雲や霧や風にもなるとされています。 あるいは空に昇って星に成るという人もいますね。シャーマンは空気の一部になった霊を寄せる超能力があるとされていたのではないでしょうか。

佐々木:それだと物心二元論と紙一重ですね。ただ事物がつまり鳥や蝶や剣や鏡に霊が二元的にやどっているのではなくて、それらの事物自体が霊的存在だということですね。

やすい:その違いか決定的に重要なのです。

佐々木:石塚さんの問題意識は、事物である神を祭るのが祭りの原初的な形だったということですから、確かに原初においては事物と霊の二元論では困りますね。

やすい:それに事物と霊の二元論だとあくまでも祭られているのは神霊の方だということになりますね。自然や動植物や人々との命のつながりが大切であって、そういう物に願いをかけ、祈りを捧げるというのが最も素朴な原初的な宗教だったと考えられます。目に見えない神霊を最初から信じていたというのはとても考えられませんね。霊を身体の不滅の部分で変態して風や気にもなると捉えているとしますと、物を神霊として崇拝しているという事が言えますし、気体状態の霊が主な崇拝の対象であるということもなくなります。

佐々木:そのことを強調することで、現在の宗教にどういう変革を迫っているのですか。

やすい:何といっても命をいただく事で生きているわけですから、食物が食物に成っている動植物が最も有り難いわけですね、だからそれが神であり、食事はすべて聖餐なのです。日常の食事が中心的な宗教儀礼になるわけです。そうしますと、調理などは神事なのですね。食物を栽培したり養育したりするのも神事です。

佐々木:そんな事を言いますと、空気や水や光こそ神であり、息を吸うことも宗教儀礼になってしまいませんか。

やすい:そうなんです。最もラジカルに言えばそういうことですね。存在すること、生きている事、命が神なのです。それを頭の中で作り出した精神的実体という観念で、神や霊を解釈するので、我々の命の営み、それを支えてくれているあらゆる存在と、その関わりを信じ、愛し、輝かせることを宗教から疎外してしまうわけですね。

佐々木:しかし石塚さんによれば、はじめから対象が神なのではなくて、周りを巡るドローメナや声をかけるレゴメナという儀礼によって神に成るということがポイントなのでしょう。

やすい:それは本末顚倒した受け取り方です。石塚さんは現地に行かれたときには回ったり、一緒に声かけされているかもしれませんが、そのやり方というのはその集団での決まりごとに過ぎません。そうした儀礼を通して神になったと納得できるので、神に対するように振舞えるという事なのです。石塚さんは研究者であって祭司ではないのです。

佐々木:それでは石ころや蛇が神になるのは、それらが元々神ではないけれど、人々の神にしようとする儀礼で神と見なされるという事ですね。ところがやすいさんのお話しでは汎神論的に元々すべて神なのだというように説明されましたが。

やすい:それは私の説明が舌足らずだったのです。我々が命の尊さに目覚め光を求め、愛に生きるというような宗教的な在り方をしている場合に、我々は類的本質存在に生きているわけですね。そのことによって諸個人も共同体も社会的諸事物も環境的事物も単なる事物(Ding)ではなくて存在者(Wesen)という在り方をするわけです。

佐々木:事物が人間との関わりで神であったりなかったりするということですね。

やすい:そりゃあそうですね、宗教的な在り方をしていなければ、対象は神ではないですから、あくまで人間存在のあり方として事物も神であり得るわけです。
 

素顔の先史と仮面の文明

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 3月22日(火)12時53分39秒
  佐々木:まず、先史時代は素顔で、仮面は文明だという仮説ですが、それは地中海で言えることなのかもしれませんが、パプア・ニューギニアとかカナダとかにも野蛮・未開の共同体で仮面文化がさかんですね。

やすい:ええ、諸星大二郎の代表作の一つに『マッドメン』がありまして、そこでニューギニアの仮面がでてきます。そこでは伝説的には仮面が先なんですね、人間より。そこが面白いところでもあるんです。マッドメンは森の精霊で、仮面は精霊の仮面だということです。

佐々木:仮面は人間が作るものですから、仮面の方が先というのは変ですね。

やすい:あくまで劇画の世界ですから、どこまで本当に伝承があるかどうか分かりません。精霊の世界があって、それが根拠に現実の世界が作り出されるとしますと、先ず精霊ありきですね。その精霊を物質の対極としての精神的実体として捉えるのではなくて、不死の物質みたいに捉えるとしますと、仮面としてイメージされても不思議はないかもしれませんね。

佐々木:ニューギニアでは泥を体中に塗って、粘土を焼いて作ったような面を頭から被って、マッドメンに成りきって踊るのがありますね。

やすい:おそらくそういうニューギニアの仮面は、精霊それ自体として意識されていて、仮面を被ることによって、その人は精霊に成り切っているのでしょうね。そう言えば縄文時代の仮面というのもありましたね。
それから縄文時代の土偶には仮面をつけた表現になっている土偶もあります。
「素顔の先史と仮面の文明」という立論にはやはり少々詰めが甘いところがあるかもしれませんね。

佐々木:石塚さんの発想では素顔のままでは神に成りきる事ができないほど文明化してしまったので仮面を被るということで、未開の仮面も少しは文明化が進んでいる事が前提ですが、ニューギニアや縄文仮面、仮面土偶などを考慮すると、「先史の仮面と文明の仮面」にした方がよかったかもしれませんね。

やすい:そうですね、マルタにはなかったにしても、仮面自体が精霊の偶像ではなくて精霊それ自体だった原始の仮面があって、先史の人々は、その仮面をつけて精霊に成っていた。それに対して、文明の人々は偶像としての仮面をつけて神に成った演技をしていたということでしょう。

佐々木:素顔では神と対面できないから仮面を被って初めて神と一致できるという発想では、既に仮面は道具視されていて、偶像段階になっている感じがしますね。それに対して本来の石塚さん流のフェティシズム的な神観念からすれば、仮面こそ人間が作った神であり、偶像ではないということですね。

やすい:素顔の方が先史で、仮面は文明という対置は、いかにも文明人の発想ですね。刺青やボディーペインティングは、未開や野蛮でもさかんです。むしろ文明によって個人の個性が認められて素顔が尊重されるわけです。それに、精霊というのはある意味、不可視ですから、偶像にできないわけです。ですから自分たちが作った仮面こそが精霊だということですね。

佐々木:未開社会のアニミズムの見直しという課題に石塚さんもやすいさんも取り組んでおられると思いますが、霊を不可視というとやはり、物質の対極の精神的実体のように見ているように受け取れますが。

やすい:身体における霊というと身体の不滅の部分があると考えて、それが身体が死んで土に帰る時に脱け出してきて、異界に向かうという発想は、不死願望からかなり古くから出て来ただろうと思います。それは精神的実体ではなくて、命の塊りみたいなもので、胎児からの連想で勾玉みたいなものと捉えられていたかもしれませんね。ただ霊は物質だけど変態するので、鳥や蝶や魚になって異界に向かうとか、風や雲になって自然に戻るとか考えられていたということです。

佐々木:森の精霊であるマッドメンはどうして仮面なのですか。

やすい:森には森の主みたいなものが居て、池にも池の主が居ますね。それが精霊と見なされていた可能性もあります。森に最初から在った大木とか、ずっと住んでいた蛇とかは精霊と見なされたかもしれません。ただどれが精霊か分からないけれど精霊の気配がするので、人々は想像して精霊の姿の仮面を作ったわけです。

佐々木:それじゃあやはり精霊は不可視の精神的実体で、仮面はその偶像じゃないですか。

やすい:いや、森の霊気の中で森の一部となって仮面を作りますから、精霊は仮面を身体として現われるわけです。仮面自体が精霊だというのはそういう意味です。

佐々木:でも精霊の気配という場合の精霊は物質的ではないでしょう。

やすい:それは森自身が放っている霊気のようなものでしよう。

佐々木:じゃあどうして仮面は人の顔に似ているのですか、精神的実体を霊と捉えるから、人の顔になるのではないのですか。

やすい:それは森の主が人であり、人は死んだら森の土に成り、木になり、そうして森の精霊になると考えられていたのではないでしょうか。

佐々木:では「オルギーと仮面」に入ります。仮面をつけて普段出来ない狂乱、つまりオルギーができるということですね。仮面で自分の人格を隠しているわけですから、人格的にはできない、普段抑圧されていた暴力や性の潜在的な衝動が解放されるということでしょう。

やすい:ディオニューソスの祭りや中世の魔女の宴サバトなどがその例ににあげられていますね。日本でも無礼講にするために仮面をつけるということが祭りなどであったようですね。今でも盆踊りで盛り上げるためにブレイクダンスを踊る人がひょっとこやおかめの面をつけますが。

やすい:仮面を被ることで顔を消すわけですが、WEBの世界の書き込みでも本名を隠すことで、デマや誹謗中傷を流す人が居て困りますね。石塚さんは近代人は複数の仮面を被っていて、それぞれの仮面に応じた演技をしている、そして素顔を隠しているといいますね。本当の自分が素顔が自分でも分からなくなっている人も多いようです。時に素顔のままの人に出会うと判断にくらむといいます。

佐々木:仮面ばかりで本当の自分、人格を喪失しているのが現代人だという批判ですね。しかしその仮面を被らない素顔の自分というのは、それこそノッペラボーだったりして、社会的諸関係のアンサンブルとして仮面の複合体としては人格は理解できるけれど、その元の主体=実体の復権は難題ですね。

やすい:疎外論は正しくその問題を核心的なテーマにしているのですが、そのためには人間観の転換が必要だというのが私の立場です。

佐々木:そこを突っ込むとまた時間をとられますので、芸能論の方に移ります。元々原始の祈りや儀式はギリシア語のドローメノンであり、祈りの言葉はレゴメノンといいます。神に行為や言葉で働きかけるのです。大地母神である土偶は壊されて埋められる事で、そこから芽が出てくるということですね。アメノウズメが裸踊りをして、アマテラスが顔を覗かせたら、タジカラヲが強力で引っ張り出した行為ですね。それをミメーシスと言うそうです。実際に神に働きかけて神を動かしている、つまり神を動かしている振りをしているわけではないのです。振り、演技だったら、まねという意味でミミックというらしいです。

やすい:芸能の起源は神に働きかけたり、神と一体化して何かをする所作だったのが、外来者がそれを見物して見世物化して芸能となったわけですね。相撲でも力士たちが相撲を取って神を喜ばせて豊作にしてもらう。あるいは力士の相撲自体が神の技として豊作を引き起こすわけですが、それが見世物化して興行化してしまったわけです。やっている本人は神に成ったり、神がかったり、神に働きかけているつもりでも、見物人にとっては、それは神に働き掛けている振りをしていると受け止め。その振りに感動する、喜ぶということです。

佐々木:その場合にまた仮面との関連に戻しますが、神に成り切っているドローメノンだと、自分が神のつもりだから素顔が神になっているので仮面は要らないけれど、ドラーマだとミミックで神のまねをしており、神に見せようとするので仮面が必要だということになるわけですね。

やすい:未開の仮面は被るためだけに作られたのではないでしょう。ニューギニアのは、すごく大きなのもありますね。だからそれ自体が森の精霊だったということです。
 

デーメーテールとディオニューソス

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 3月20日(日)23時20分11秒
  佐々木:「デーメーテールとディオニューソス」というかなり長い論稿ですね。やはりマルタとかギリシアの現場に脚を運ばれて書かれているので、石塚さんが好奇心の塊りになって、活き活きと取材されている様子が目に浮かぶようですね。

やすい:ええ、四百字詰め原稿用紙でいくと百二十枚ほどになりますかね。ともかく本人が楽しそうに書かれているので、読むほうも読んでいて楽しく、わくわくしてきます。

佐々木:「まとめにかえて」でやすいさんの『キリスト教とカニバリズム』や『イエスは食べられて復活した』に触れておられます。イエスの最後の晩餐やキリスト教会の聖餐式のパンとワインの聖餐と関わってくるところが面白いですね。

やすい:大地母神デーメーテールは麦穂でありパンにつながり、
ディオニューソスはワインです。ですからパンを食べることは大地の命をいただいているということであり、ワインを飲むことも大地やブドウの命をいただくわけですね。つまり大地や麦やブドウが元々は、われわれにとって命の元であり、最も大切な存在として神なのです。ですから毎日の食事が神との合一であり、聖餐なのです。食事こそもっとも重要な宗教儀礼だということですね。

佐々木:日本では産土神という大地信仰がありますし、稲荷信仰とか正月神信仰のような穀物神信仰もあります。鰯の頭を魔除けにしたりしますが、食物を神として信仰する伝統があります。ですから、毎日の食事で必ず手を合わせて「いただきます」と唱和しますが、これも神をいただく聖餐の儀礼だということですね。

やすい:ええ、ですから日本人は無宗教だとか、信仰心がないとか良く言われますが、三度三度の食事で神に手を合わせているのですから、大変宗教的な国民だと言えますね。

佐々木:キリスト教の聖餐式もパンとワインの聖餐ということを考えれば、同じなのですが、それがイエスの肉とイエスの血であるためには、教会という地上におけるイエスの体の中で秘蹟として始めて聖別されるわけですから、一般の家庭の食事は聖餐ではなくなってしまっていますね。

やすい:そうなんですよ、ですから石塚さんのこの論稿は、パンとワインの聖餐のルーツを解明して、聖餐を教会の秘蹟から家庭の日常の食事に取り戻すというものなのです。これはある意味二十一世紀の宗教改革ですね。

佐々木:やすいさんは新宗連シンポの準備会でドラ焼きを食べさせて宗教改革を起こそうとされたようですが、その前に石塚さんのこの論文があったわけですね。

やすい:話しがまとめから入っているのですが、イエスの肉と血を生んだのが聖母マリアです。ご承知のようにキリスト教は一神教ですから、異教の神々を認めません。大地母神も否定するわけですが、やはり大地に豊穣を願う祈りを捧げるわけですから、デーメーテールやイシュタル、アシュタロテなどに代わる大地母神の性格を聖母マリアに与えようとしたわけです。

佐々木:確かに、神の霊を宿すマリアは肉体ですからね。だからイエスを人として生むことが出来たわけです。マリアも霊だったら聖霊は受肉できないのでイエスは生まれてこれないわけです。その意味でマリアは生む大地母神の役割を果たしたわけですね。

やすい:ただしヤハウェは見えざる神であって肉体を持っていません。処女のまま聖霊と交わったわけですから、マリアは官能や性愛の女神にはなれないわけです。そしてマリア自身は食欲や性欲の対象にはなりえないわけですね。

佐々木:だから代わりにというか、イエスが「命のパン」になるわけですね。順番はむしろ逆で、イエスが「命のパン」と呼ばれたので、その母であるマリアが大地母神の役割を補完したのですね。

やすい:マリアがあくまで大地的な肉体的な存在だということは、マリアの被昇天で、肉体をもったまま昇天させられたとされているところに現れていると石塚さんは捉えているようです。

佐々木:ただマリアには他の大地母神のような性愛的な性格画ないわけで、マリア像もほとんど受胎告知、聖母子像やイエスの亡骸を抱くピエタ像だけです。大地母神が性愛的なのはセックスで子供を生むということと、大地が豊かな実りを生むことは同一視されているからでしょうね。

やすい:大地は様々な命を生み出しますから、産む性は女性で大地母神は女神です。女が産むのだから、それはセックスによってだということになり、性愛を司るのは当然です。ですからアフロディテやイシュタルの神殿では、聖婚儀礼が行なわれ、それによって豊穣がもたらされると信じられていて、その国の女性はだれでも一生に一度はその神殿で売春をしなければならなかったという伝承をヘロドトスの『歴史』は伝えているようですね。

佐々木:ということは、大地母神はその女性に乗り移って、セックスをして豊穣をもたらすということですか。

やすい:それはロゴス的解釈ですね。ロゴス的にはそういう解釈でするのでしょうが、ミュトス的には、本来女性はみんなエバであり、アフロディテやイシュタルであり、デーメーテールなのです。つまり女性は大地の一部であり、大地の代表としては大地そのものですから、セックスによって大地は子をはじめ様々な豊穣をもたらすということでしょう。

佐々木:それはイザナギ・イザナミのセックスによる国産みと通じていますね。我々だってイザナギとイザナミなのだと思って、命を燃やしてセックスをすれば、子供を授かるだけでなく、日々の暮らしや、社会や自然をリフレッシュさせ、日々新たに生み出すことができるということですね。なるほどセックスだって宗教だということになりますね。

やすい:ええ、それを石塚さんは「フェティシズムは宗教ではない」と表現されています。命を与えてくれいる食べ物に感謝したり、陰陽相和して命やパワーを生み出すというのは、それ自身当然の生命活動であって宗教ではないということでしょう。私はむしろ食べ物に手を合わせたり、大いなる生命と一つになって命やパワーを生み出す営みにこそ宗教性を感じますね。

佐々木:宗教というのは教義を持った集団の教えという意味を含みますから、石塚さんのようにそれ以前のミュトス的段階は宗教ではないという言い方の方が正確かもしれませんね。

やすい:それは全くその通りなのですが、三つのL、光・命・愛についてはだれしも強い思いを懐かざるを得ないので、宗教の原点における共通性については対話可能だいうことです。そこに信じるとか祈るとか云う行為の原点はある感じるのですが。

佐々木:その原点の情景みたいなのはバッハオーエン『母権論』で「クレタ島の犂が三度入れられた豊穣なる休耕地で、デーメーテールがイーアシオスと、すなわち不死なる女神が死すべき人間の男と愛し合った、ということはクレタ島における母権を理解するには重要である。……イーアシオスはデーメーテールにとっては種を播く者にすぎない」とあるでしょう。クレタ島は肥沃で、だからそこに開拓者や侵略者がやってきて、休耕地に鍬を入れ、種を蒔こうとする。そのためにはクレタ島に古くから暮している先住民と融合しなければならない。島の娘を抱く事と、クレタの土を耕す事はオーバーラップしているわけでしょう。ですから島の娘がそのままデーメーテールだということです。

やすい:ところが、クレタ島は母権社会で、生まれた子供は母親の実家で、母親が属す共同体で育てられるわけです。やってきた男は島の労働力として新しい共同体のメンバーになるということでしょう。生まれた息子は同じ共同体の娘には手を出してはいけません。女は皆ある意味デーメーテールであって、神なのですから。族外婚の原則があるわけです。ですから別の共同体の娘のところに通うか、島を離れていくかするわけですね。

佐々木:「元始女性は太陽であつた」というのは平塚らいてうの『青踏』発刊の辞ですが、太陽神が女神の日本の古代も母権社会であったということですか。

やすい:太陽神が女神に成ったのは何時からは日本古代史にとっては大きな謎なのです。豪族や領主となれば、家督や財産を継承するということで、男系になっていきますが、庶民の場合は、一家で耕せるだけの田を耕して、その田畑を引き継いでいるだけですから、嫁とりより婿とりの方が一般的で、通い婚が多かったわけです。女権社会とはいえないものの女系社会だったということですね。
 

デーメーテールとディオニューソス続き

 投稿者:やすいゆたかメール  投稿日:2011年 3月20日(日)23時17分20秒
  佐々木:母権にしても母系にしてもまあ母親がだれか分かっていればいいわけですから、通い婚みたいな場合は特に貞操観念はそれほどなかったということですね。

やすい:貞操観念という言葉は死語になりつつありますね。

佐々木:そういえば、売春が不道徳として禁止されていても風俗営業で続いていたのですが、それはまだ穢れた仕事と見なされていたのですが、そういう道徳観念から性を捉える意識が希薄になって、バイト感覚で援助交際が流行し、不倫も問題になるのは政治家や芸能人だけで、貞操を守っている夫婦というのはむしろ少数派ではないかと思われるようになっていますね。最近は、WEBの普及で、膨大なアダルトビデオが製作されていますが、そこに出演して自分の裸を晒し、性交場面を一般公衆に見せようとする人が大勢いるわけです。

やすい:そういう人は、プレイとしてスポーツ感覚というか、楽しみでしている訳で、性を道徳的なジャンルとはみなしていないわけですね。それはでもやはり、家庭崩壊の原因になるリスクが高いわけで、家庭崩壊という現代の疎外問題と密接につながっています。古代地中海世界では、水運を利用した交易がさかんになり、商品経済が発展しました。フェニキアだとかギリシアですね。地中海各地に植民地都市を建設したわけです。そうなりますと私有財産を管理し、相続するために自分の子供であることがはっきり分かる父権的な家族が形成され、家族も戸主の財産のように扱われますから、妻の貞操も求められるようになるわけですね。しかしギリシア人もかつては母系社会だったでしょうし、周辺諸部族は母系社会が多いわけで、そういうところは族内婚は禁止されていても、それ以外の規制はないわけです。それで日ごろの性抑圧から女性たちの不満が溜まっていて、それがディオニューソスの祭りが起こる原因ではないでしょうか。

佐々木:石塚さんはディオニューソスをブドウやワインの神と、女性と肉の神という二つの型があったとされます。それがワインに酩酊し、激しい舞踏によって狂乱状態になり、牛や羊やカニバリズムとありますから、女性も被害にあったのかもしれません。ともかく八つ裂きにされて生肉を食べられたということですね。

やすい:ディオニュソース神話では、ディオニューソスが信女たちを率いて、ギリシアの各地にやってきて、祭りを始めると、その土地の女たちが加わったということです。テーバイの王ペンテウスはディオニューソスを信仰しなかったのですが、彼の母アガウェーも加わっていたのです。ペンテウスは彼女たちの乱暴を止めに行くのですが、結局八つ裂きにされてしまったということです。またディオニュソース自身も牛になったときに八つ裂きにされて食べられるという話もあります。

佐々木:ウーマンリブの観点からの解釈もおもしろいかもしれませんね。石塚さんは、ブドウやワインや牛や或る場合には人までもオルギー(狂乱)の中で食べられたり飲まれたりするのですが、死は再生につながるのでしょう。だって食べるのは大地母神であるデーメーテールにあたる女たちですから、ブドウや牛になってあるいは人間になって生まれてくるわけですから。

やすい:そういう意味では、また石塚さんのロゴスとミュトスに落しますと、大地から生まれた牛や木々や人は、命を燃やし、食べたり食べられたりして、また大地の命に戻るという、共生と循環が、あるがままの生の姿であって、石塚さんのいうミュトスですね。それを神話に形象化したのがディオニューソス神話だという事ですね。

佐々木:それでイエスに対する聖餐というのも、パンとワインの聖餐なのだから、自然の生命循環のが根底にあるということですね。イエスも血と肉に戻ったときに永遠の命に戻ったのであって、そのイエスと合一することが永遠の命に連なる事であり、それは日常のパンとワインあるいは肉の食事でも、ミュトス的には同じなのだという事ですね。

やすい:全くその通りです。イエスは何故神と仰がれたのか、それは自らの血と肉を与えて、聖霊を引き継がせようとしたからなのです。たしかの山上の垂訓も素晴らしい、悪霊追放のパフォーマンスも見事だった、そういう素晴らしい預言者は他にもいたでしょう。モーセやダビデ王でも神とはされていない、どんなに素晴らしい奇蹟を見せたとしても、人は神とはみなされません。イエスは特別なのです。だって己の肉を食べさせ、血を飲ませてまで聖霊を引き継がせようとしたのですから、それは人間を超えているということですね。

でもだから、イエスは特別だで終わってはいけません。そこでもう一度振り返ってください、イエスは自らを命のパンと言った。そしてパンを私の肉、ワインを私の血だと言ったわけです。
それじゃあ、我々が毎日食べているパンは何なのか、それはイエスの肉ではあり得ません。そんな事を言ったら、フェティシズムです。それでもイエスが昇天した以上、教会儀礼のパンを聖別してイエスの肉だということしかしようがないわけですね。

佐々木:それでやすいさんは、毎日食べているパンもイエスの肉だとすればいいということですか。

やすい:フェティシズムはだめだというのなら、教会のパンをイエスの肉だというのも駄目なはずですね。それはさておき、イエスは肉と血を与えて聖霊を引き継がせたわけですが、毎日のパンは命を与えてくれていますね、肉やワインもそうです。最も大切な命を日々我々は授かって生きているわけで、その生命循環が続いていくのが永遠の生命だとしたら、まさしく毎日の家庭のパンやワインや肉こそが神ではないかということです。イエスの聖餐は身を以ってそのことを示してくれたことに意義があるわけです。つまりパンもワインもイエスの肉や血ではないけれど、それ自身がミュトス的には神なのです。
 

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